小笠原忠固
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小笠原 忠固(おがさわら ただかた、明和7年9月4日(1770年10月22日) - 天保14年5月12日(1843年6月9日))は、豊前小倉藩の第6代藩主。父は播磨安志藩主・小笠原長為(忠固は次男)。母は田中易信の娘・すて。正室は第4代藩主・小笠原忠総の娘で、第5代藩主・小笠原忠苗の養女・富姫。側室に神田氏。官位は従四位下。大膳大夫。少将。
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[編集] 生涯
[編集] 藩主就任
1770年9月4日生まれ。実は長為の長男であったが、生母が妾であったため、忠固は妾腹の子であった。このため長為に正室との間に男児が生まれると、忠固は次男とされてしまった。しかし1794年、本家の藩主である忠苗の養嗣子となり、1804年7月20日の養父の隠居により家督を継いだ。1807年には朝鮮通信使の正使の接待、さらに小倉城の火災焼失などによる再建費用などで出費が相次ぎ、藩財政は悪化する。
[編集] 白黒騒動
このような中で、御家騒動が発生する。忠固は決して暗愚だったわけではなかった。むしろそれなりに活動的な殿様で、実力もあった。ただし中途半端に実力を備えていたことが災いした。1811年、忠固は突然、家老の小笠原出雲を呼び出して、「自分も幕閣となって国政に参与したい」と言い出した。出雲はこれに対して賛成しなかった。もし、小倉藩主ほどの人物が幕政に参与するとなれば、老中くらいの役職に就くことになる。そうなれば、老中になるまでの運動で幕閣に対する出費や運動資金、いわゆる賄賂は莫大なものになるだろう。しかも当時は日本近海に外国船が出没し、幕政も行き詰まっている時期である。だから出雲はあまり幕政に関わらず、むしろ藩政の再建が重要だと考えて反対した。忠固も一時はこの諫言を聞き入れたが、またもや出雲に対して老中になるように運動するように命令を出す。こうなると小笠原一族である出雲は、本家の当主の命令に従うしかなかった。
だが、やはりそのための運動資金は莫大なもので、藩財政は破綻寸前となる。このため、反対派は忠固を老中にしようと運動している出雲を奸臣と見なしてその暗殺を図った。出雲のほうは未遂で終わったが、出雲の腹心が暗殺されてしまった。だが、反対派のほうも必ずしも一枚岩ではなかった。反対派の一部に自分の出世と出雲の手腕を妬む者がいて、この一派がとんでもないことに小倉藩が外国船に備えて造営していた狼煙台を勝手に使用して藩士を扇動したりして、執拗に出雲の暗殺を図ったのである。しかも反対派の一部が藩財政の悪化などからストライキを起こして筑前国黒崎に出奔してしまったのである。このため、反対派は黒崎から「黒」、出雲の一派は小倉城内(城→「白」)ということから、この騒動は白黒騒動と呼ばれているのである。
そして、このような一連の騒動が幕府の耳にも入り、そのメスが藩に入ることとなった。出雲は家老罷免の上で失脚。反対派に属していながら己の栄達を謀った一派は処刑、藩主の忠固も100日間の禁固刑となった。忠固の刑が軽かったのは、幕政に参与したいという幕府に対する忠誠心から起こったものであるとして、軽くされたのである。
[編集] 晩年
その後、忠固は年貢増徴などにより藩財政の再建を図ったが、それくらいではもはや賄いきれず、白黒騒動での出費と混乱から借金は15万両に膨れ上がって藩財政は窮乏化する。そして遂には百姓の窮乏化を見て哀れんだ奉行が、年貢減免を独断で行なった後に切腹するという事件までもが起こった。文政年間には村方騒動も起こった。
このように混乱続きの藩を再建するため、忠固は土木工事を行ない、倹約令を出しているが効果はなかった。1843年5月12日(幕府の届出は7月18日)に74歳で死去し、後を子の小笠原忠徴が継いだ。墓所:東京都台東区松が谷の海禅寺。
白黒騒動が起こった藩主で有名であるが、この騒動が結果的に小倉藩の衰退につながったのである。幕末期に九州でも最高の譜代の藩・小倉藩の衰退は、外様の薩摩藩や長州藩など近隣の諸藩にとっては有利になったと言えるであろう。