小笠原忠苗
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小笠原 忠苗(おがさわら ただみつ)は、豊前小倉藩の第5代藩主。
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 延享3年9月24日(1746年11月7日) | |||
死没 | 文化5年2月18日(1808年3月14日) | |||
別名 | 保三郎(幼名) | |||
戒名 | 浄国寺殿寛嫂維信 | |||
墓所 | 東京都台東区松が谷の大雄山海禅寺 | |||
官位 | 従五位下、伊予守、 従四位下、右近将監、侍従 |
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藩 | 豊前小倉藩主 | |||
氏族 | 小笠原氏 | |||
父母 | 父:小笠原長逵 母:粟津弥次右衛門の娘・法寿院 養父:小笠原忠総 |
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兄弟 | 兄:小笠原長為 弟:大岡忠與、小笠原政宣 |
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妻 | 正室:山内豊敷の娘・正姫 | |||
子 | 春次郎、暇年姫 養子:小笠原忠固 養女:富姫(小笠原忠固室) |
第3代藩主・小笠原忠基の子で、播磨安志藩主である小笠原長逵の三男として1746年9月24日、安志で生まれる。1772年3月に第4代藩主・小笠原忠総の養子となる。1773年に従五位下、伊予守に叙任される。1790年、忠総の死去により、1791年1月29日に家督を継いで藩主となり、従四位下、右近将監に昇進する。
藩政においては、先代から重用されている犬甘知寛をなおも用いて、藩財政再建を目指した。しかし天明の飢饉による大被害により多数の死者が出て、百姓による逃散も相次いだ。このため、1792年に厳しい倹約令を出し、身分制の強化(被差別部落民に対して税を重くした上、彼らの着物を青染で統一した)、文武の奨励などを行なった。これら一連の改革で、1798年頃には財政も好転し銀8000貫の貯蓄が出来るまでに至った。
ところが、これらの改革は百姓にはあまりに負担が大きかった。このため、1802年の洪水被害を契機として、遂に百姓の怒りが爆発し、1803年1月には小倉城下で家老の犬甘の免職と減税を求めて強訴を行なった。このため、遂に犬甘は失脚の上で入牢、そして非業の死を遂げた。
また忠苗自身も、これら一連の騒動の責任をとって、1804年7月20日に家督を養子の忠固に譲って隠居したため、幕府は騒動の責任を問わなかった。これら一連の騒動を「小笠原騒動」という。
1808年2月18日に死去。享年63。
小笠原騒動は後に奈河清助によって「濃紅葉小倉色紙」として戯曲化されている。