小笠原忠総
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小笠原 忠総(おがさわら ただふさ)は、豊前小倉藩の第4代藩主。
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 享保12年8月22日(1727年10月6日) | |||
死没 | 寛政2年11月8日(1790年12月13日) | |||
別名 | 政之助、只次郎(幼名) | |||
戒名 | 諦観院殿真乗道円 | |||
墓所 | 東京都台東区松が谷の大雄山海禅寺 | |||
官位 | 従五位下、伊予守、従四位下、侍従、左京大夫、 兵部大輔 |
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藩 | 豊前小倉藩主 | |||
氏族 | 小笠原氏 | |||
父母 | 父:小笠原忠基、母:木村重房の娘・常(涼心院) | |||
兄弟 | 兄:小笠原忠貞、長吉、小笠原長逵、久吉、小笠原長良 弟:小笠原長周、姉:利代姫、幾姫、幸姫 妹:多賀姫、永姫 |
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妻 | 正室:浅野吉長の養女(松平長堅の娘)・能姫(養寿院) 側室:山崎権蔵の娘・魏 |
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子 | 富姫(小笠原忠固室) 養子:小笠原忠苗 |
1727年8月22日、第3代藩主・小笠原忠基の六男として小倉で生まれる。はじめ阿波徳島藩主・蜂須賀宗鎮の養子になる予定であったが、1741年に長兄・小笠原忠貞が死去してしまったため、養子縁組を解消して父から世子に指名された。同年12月、従五位下、伊予守に叙任される。1752年、父の死去により家督を継いで藩主となる。
藩政においては、犬甘知寛を家老として登用し、藩財政再建を目指す。そして倹約令の強化、身分制の強化、税制の強化、借上などを行なう。1790年11月8日に死去。享年64。
後を養子の忠苗が継いだ。