宮城県仙台第一高等学校
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宮城県仙台第一高等学校 | |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 宮城県 |
校長 | 北島博 |
設立年月日 | 1892年4月1日 (宮城県尋常中学校設立) |
校訓 | 自重以テ己ヲ律シ 獻身以テ公ニ奉ス (1906年6月6日制定) |
標語 | 自發能動 以亮天功 (1932年1月1日発表) |
スクールカラー | えび茶色 (1959年5月生徒会制定) |
創立記念日 | 6月6日 (宮城県尋常中学校開校式) |
設置学科 | 全日制普通科 通信制 |
共学・別学 | 全日制: 男女別学(男子校) 通信制: 男女共学 |
所在地・連絡先 | |
所在地 | 〒984-8561 |
宮城県仙台市若林区元茶畑4番地 | |
電話番号 | 022-257-4501 |
FAX番号 | 022-257-4503 |
通信制直通 | 022-293-6739 |
公式サイト | 宮城県仙台第一高等学校 宮城県仙台第一高等学校 通信制 |
宮城県仙台第一高等学校(みやぎけんせんだいだいいちこうとうがっこう)は、宮城県仙台市若林区元茶畑に位置する県立の高等学校である。初代校長は『言海』(後の『大言海』)を編纂した大槻文彦で、彼が掲げた「自重献身」を校訓としている。男子校でありながらも県内トップクラスの進学校で、仙台二高、仙台三高、宮一女高、宮二女高、宮三女高と合わせて「宮城県ナンバースクール」と呼ばれる。学区制が施行される前は偏差値県内トップだった。東北大学へは現浪あわせて毎年40名前後が進学する。
目次 |
[編集] 沿革
- 1892年4月1日 - 宮城県尋常中学校として設立。
- 1892年6月6日 - 開校式。
- 1899年4月1日 - 宮城県中学校に改称。
- 1899年7月20日 - 校舎を南六軒丁に新築移転。
- 1900年4月1日 - 宮城県第一中学校に改称。
- 1901年7月1日 - 県立宮城県第一中学校に改称。
- 1904年6月1日 - 宮城県立仙台第一中学校に改称。
- 1907年1月24日 - 校舎全焼。
- 1908年9月1日 - 校舎を元茶畑に新築移転。
- 1919年11月1日 - 宮城県仙台第一中学校に改称。
- 1948年4月1日 - 学制改革により宮城県仙台第一高等学校に改称、通信教育部を設置する。
[編集] 歴代校長
- 初代: 大槻文彦(1892年12月28日 - 1895年9月17日) - 国語辞典『言海』編纂者
- 2代: 湯目補隆(1895年9月17日 - 1896年7月16日)
- 3代: 下條幸次郎(1896年7月25日 - 1902年10月1日)
- 4代: 西谷虎二(1902年10月6日 - 1902年12月19日)
- 5代: 氏家謙曹(1903年4月17日 - 1904年8月10日)
- 6代: 川田正澂(1904年8月10日 - 1909年4月23日) - 元東京府立第一中學校・東京府立高等學校校長
- 7代: 櫻田廣利(1909年4月25日 - 1914年2月3日)
- 8代: 宗像逸郎(1914年3月12日 - 1920年3月29日) - 柔道家
- 9代: 小平高明(1920年3月29日 - 1942年4月4日)
- 10代: 小野徳四郎(1942年4月4日 - 1945年12月21日)
- 11代: 宮城音五郎(1946年3月21日 - 1950年9月30日) - 工学者、元東北帝国大学名誉教授、元宮城県知事
- 12代: 高山政雄(1950年12月1日 - 1955年7月4日) - 元駒場東邦中学校・高等学校校長
- 13代: 宇野量介(1955年7月4日 - 1963年7月3日)
- 14代: 大竹金彌(1963年8月16日 - 1974年3月31日)
- 15代: 北村潮(1974年4月1日 - 1978年3月31日)
- 16代: 青木功二(1978年4月1日 - 1981年3月31日)
- 17代: 大場恒一(1981年4月1日 - 1988年3月31日)
- 18代: 高城公彦(1988年4月1日 - 1991年3月31日)
- 19代: 鈴鴨清美(1991年4月1日 - 1993年3月31日) - 宮城教育大学副学長
- 20代: 井崎英男(1993年4月1日 - 1996年3月31日)
- 21代: 宍戸多聞(1996年4月1日 - 2001年3月31日)
- 22代: 菅井茂(2001年4月1日 - 2005年3月31日)
- 23代: 北島博(2005年4月1日 - 現職)
[編集] 校風
自由な校風と自発能動の精神は発起人制度を生み、特色ある学校行事は企画から運営実施まで生徒自身によって行われている。
[編集] 生徒会
詳しくは仙台一高生徒会の項を参照されたし。
全国でも類をみない「発起人制度」が導入されており、一高の自由と自治の精神を成文化する制度である。これは標語である「自發能動 以亮天功」を成就するために昭和56年に生徒会規則で定められたもので、それまでのいわゆる″執行部制度″″生徒会長″などを廃止し、あらたに″生徒総会″を中心とする生徒会構図を築きあげた。執行部がないので、文化祭や体育祭などの実行委員会は各学年の有志で構成される。学年、人数等に制限はなく、反面、実行委員が募らなければ文化祭などのイベントが中止になるというスリリングな制度である。しかしそのために、生徒の中に「一高は自分達が作っている」という意識が芽生え、その気概が一高魂へとなっていく。最近では「一律共学化反対委員会」が生徒総会で受理された。
[編集] 応援団
應援團とも表記される。全国屈指の歴史と伝統を誇り、旧制高等学校さながらの、弊衣破帽を身に纏ったバンカラスタイルでの応援を特徴とする。発足は大正時代で、後の1936年(昭和11年)4月に正式に初代応援団が結成され、今に至る。厳密には、応援団とは全校生徒をもって組織される集団のことを指すが、単に「応援団」と言った場合には、有志から成る応援団幹部を指す場合がほとんどである。応援団幹部は、全校選挙で選ばれる団長1名、生徒総会の承認を必要とする副団長3名、以下幹部若干名から成り、生徒の中心的存在として多くの場面で活躍する。特に、応援団長は仙台一高に於いて神とされており、たとえ校長であろうと、団長の前を通ることは許されず、生徒総会などにおいても団長は校長より上座に座っている。その他の特徴として全国規模でみても旗振りを中心とする応援形態は珍しいものであり、応援団幹部は役職によって振る旗の色やデザイン、材質が異なるという特徴もある。
[編集] 歌
本校には、時代を超えて幾世代もの生徒が共有してきた歌がある。以下はそれの紹介である。
[編集] 校歌・応援歌
本校に入学した1年生は、応援団幹部による指導のもと、以下の校歌・応援歌を定期戦までの期間に覚える。これらの歌は、在学時はもとより卒業後の会合などにおいても頻繁に歌われる。
- 校歌 - 1909年4月1日制定、作詞: 大槻文彦、作曲: 岩城寛
青葉の山の深緑 すがすがしきを心にて 身をし重んじつつましく 矩をばこえず守るべし
広瀬の川の一筋に 我が私をうちすてて 赤き真心捧げもち 御国のためにつくすべし
-
- 旧制仙台一中時代から変わらずに歌われる、伝統ある校歌。
- 奇しくも、宮城県仙台第二高等学校校歌と作曲者は同じである。
- 応援歌一番
- 応援歌二番 - 1924年制定、作詞: 津久井信也(中31回)
- 応援歌三番
- 旋律は旧制第二高等学校第一部凱歌『かの群小を』による。
- また岩手県立盛岡第一高等学校の「第四応援歌」や福岡県立修猷館高等学校の「彼の群小」と酷似している。
- 敗戦歌であるとも言われ、近年では実際に応援で歌われることは皆無に等しい。
- (なお、旧制第二高等学校第一部凱歌『かの群小を』は学科対抗の水上運動会の際の凱歌)
- 応援歌四番 - 1957年4月制定、作詞: 小山忠男(高9回)、作曲: 岩田章(高10回)
- 敗戦歌であるとも言われ、近年では実際に応援で歌われることは皆無に等しい。
- 応援歌五番(凱歌一番)
- 本校独自の旋律と思われる。旧制仙台一中時代に凱歌として歌われ、学制改革により仙台一高となった後もある時期まで凱歌として歌われてきた。
- 旧制第二高等学校の「肥馬鞭打たせ」が凱歌として専ら歌われるようになってから、今までの凱歌「杜の都に覇を唱え」を応援歌五番(別称: 凱歌一番)として歌うようになった。
- 凱歌二番(いわゆる「がいか」)
- 「対高工野球戦凱歌 原」(「凱歌」あるいは「ひばむちうたせ」)
- 作詩 湊 勇雄 作曲 閑歳 俊雄
- 「対高工野球戦凱歌 原」(「凱歌」あるいは「ひばむちうたせ」)
- 壱、肥馬むちうたせゆるかにも
- 敵の牙城に寄るは誰
- 秋水一度(しゅうすいひとたび)ひらめけば
- 君は無人の境(さかい)行く
- 戦勝(たたかいか)てり美酒(うまざけ)を
- くみてたたへん君が御名(みな)
- 光涼しく月照れば 喜びに満つ五城楼
- 弐、秋の最中(さなか)の野の風に
- 乱れてふすやしこ草の
- 定め果なし敵の軍
- 紅蓮の旗は地に伏しぬ
- 戦勝(たたかいか)てり美酒(うまざけ)を
- くみてたたへん君が御名(みな)
- 光涼しく月照れば 喜びに満つ五城楼
-
- 試合に勝利した時やストームを行う際に歌われる。
- 元歌は旧制第二高等学校大正11年対仙台高等工業学校野球戦凱歌「肥馬むち打たせ」であり、学校ごとに旋律や歌詞に多少の違いはあるが、宮城県や岩手県などの高校で広く歌われている。
- 本来の歌詞中にある「紅蓮の旗は地に伏しぬ」というのを「二高の旗は地に伏しぬ」と歌うのは本校の校旗が、赤ないし海老茶色であるためである。ちなみに、二高では「一高の旗は地に伏しぬ」、向山高校ではそのまま「紅蓮の旗は地に伏にぬ」と歌うらしい。また、古くは「最中」を「もなか」、「定め果なし」を「定め儚し」と歌ったという。
- 宮城県仙台第二高等学校に於いては、同歌を「勝利の歌」と呼称する。音楽は外部リンクを参照。
- 五城の雄
- 勝利の歌
- 公の場では、定期戦に優勝した時のみに歌うことができる。他の応援歌とは異なり、勝利の歓びを荘厳に歌う。
- 一高行進曲 - 1938年6月6日制定(同窓会より寄贈)、作詞: 安藤邦夫(中33回)、監修: 高野辰之、作曲: 福井文彦
- 起てよ我が友
- 仙台一高野球部歌
- 飴かアラレ
- 宮城県仙台第二高等学校の応援歌「雨か嵐か」の替え歌。
- 定期戦においては、仙台二高側が「雨か嵐か」を歌っている時と、団長(もしくは副団長)交歓の際に、仙台二高側を揶揄するために歌われる。
[編集] その他の歌
上に挙げた応援歌以外にも以下の歌が存在する。
- 篭球部部歌
- 端艇部部歌
- 柔道部部歌 - 作詞: 木下春雄
- 剣道部部歌
- ラグビー部部歌 - 作詞: 米谷健一郎(中42回)、作曲: 松田光弘(高36回)
- 仙台一中野球部応援歌
- 仙台一高野球部応援歌
- 落成式の歌(「明治41年9月 仙台市元茶畑に新校舎落成す」)
また、ほとんどの教員に対して、同じメロディーで歌詞を替えた歌も作られている。
[編集] 学校行事
[編集] 運動祭
毎年4月下旬に開催される。開会式では体操として一高体操が行われる。縦割りホームルーム同士の対抗戦で、男子校ならではの荒っぽい種目が多い。競技の判定への物言いが頻繁につくため、定刻に終わることは皆無である。
[編集] 一高体操
体育の授業における体操としてはあまり使われないが、一高体操というものがある。昭和49年に、仙台二高から転任した体育教師、渡辺剛吉によって発案され、57年には「ストレッチ運動」が、58年には「伴奏」が、それぞれ追加されてゆき、現在の一高体操に至っている。
昭和40年代末、仙台一高は、学園闘争の終結や進学至上思想などにより、“無気力・無関心”といった空気が生徒の間に広まっていた。運動祭に至っては全校生徒の過半数が欠席、早退をするといった有様で、競技のほうも、徒競走などといった「個人競技」を行わざるを得なかった。この状況を打開しようと決起した当時の一高体育科は、運動祭から一高の空気を換えていこうと思い立ち、その象徴として、団体行動としての「一高体操」を作り上げる事を決定した。一高体操は「スウェーデン体操」と「デンマーク体操」を下敷きとしながら、男子高校生が行う事を念頭に、「足腰の強化」「筋肉増強」に主眼をおいて造られている。そのために内容はかなり激しく、また首などの運動は端折られている。そして運動祭の方も、1年から3年の、同じ組数の生徒同士が点数を競い合う形の「縦割りHR」制度が導入され、競技内容も、帽子ではなく騎馬を崩さないと点数にならない「大騎馬」、生徒のみならず教員も参加しなければならない「大量リレー」など、団体競技・肉弾競技を盛りこみ、個人競技を廃止した。そのおかけで一高の運動祭は復活し、現在も荒々しい事で定評があり、他校からの見学も出るほどになった。 昭和50年代の後半になると、スポーツ医学の発展から、ストレッチが重視されるようになり、一高体操にもふんだんにストレッチの要素が盛り込まれた。また、体操の浸透とともに「一高体操に伴奏を」との声も次第に高まったので、一高体操の伴奏を全校応募した。そして当時吹奏楽部の生徒の伴奏が採用になり、初めて今の一高体操が完成した。現在一高に入学すると、運動祭まで体育の授業は一高体操に当てられ、数回、三年生と一年生が合同で体育の授業をし、一高体操を伝授する。一高体操がマスターできないと体育の単位をもらえないので、一年生は必死になって覚える。2003年の第46回一高祭にて一高体操CDが限定販売された。
[編集] 対仙台二高定期戦
対仙台二高定期戦とは、ライバル関係にある宮城県仙台第二高等学校との間で行われる定期戦の総称である。特に有名なのは硬式野球定期戦であり、単に「定期戦」と言った場合にはこれを指す。硬式野球定期戦・三部定期戦以外にも、幾つかの部で定期戦が行われている。
[編集] 硬式野球定期戦
硬式野球定期戦は、宮城県仙台第二高等学校との硬式野球の定期戦で、毎年5月中旬に行われる。「杜の都の早慶戦」と呼ばれるが、早慶戦よりも起源は古く、1900年から何度か中断されながらも続いている伝統行事である。両校とも、応援団幹部を中心として全校総出で応援合戦を繰り広げるため、両校の生徒にとって最大のイベントとなっているが、2007年に予定されている仙台二高の共学化に伴い、存続が危ぶまれている。また、東北楽天ゴールデンイーグルスのプロ野球参入に伴う、県営宮城球場(フルキャストスタジアム宮城)の改装により、従来の応援形式がとれないなどの問題も発生している。2005年5月14・15日に実施された定期戦で、仙台一高の1946年からの通算戦績は59勝66敗2分、優勝回数は仙台一高が25回、仙台二高が26回、両校引き分けが9回となった。
ちなみに、仙台一高硬式野球部は、夏の全国高等学校野球選手権大会には、仙台一中時代も含め過去3回出場している。試合内容は、大味な展開が多く、ラグビーの試合と見まがうこともしばしばある。観客動員も多く、夏の甲子園決勝戦の観客数を上回ることもしばしばあったと言われるが、正確なデータは残されていない。応援スタイルは、相手へのヤジを基本とし、チャンス及び攻守交替の際に応援歌を挟む。サッカーのサポーターの応援スタイルとも類似するが、歴史はこちらが古い。なお、定期戦以外の夏の甲子園地区予選などで、その辛らつなヤジが問題となり、地元紙の投書欄を賑わわせることが繰り返されてきた。自校の観客にはストレス解消でも、免疫のない学校にはカルチャーショックとなる。
[編集] アピール行進
仙台二高ではPR行進と呼ぶ。硬式野球定期戦の前々日に行われ、仙台一高・仙台二高の応援団幹部をそれぞれ先頭とし、以下、各校の1年生全員と2・3年生有志が、応援歌や野次を叫びながら一番町を行進し、西公園までを歩く。行進の際、奇抜な仮装をして目立とうとする者も多い。さらに、本校の1年生は履物として高下駄を履くため、大変大きな下駄の鳴る音がする。2006年のアピール行進は、仙台二高が応援団幹部消滅のため実施せず、仙台一高のみで決行された。最終目的地を西公園から仙台二高校舎前に移し、二高の決起を促した。
[編集] 三部定期戦
三部定期戦は、以下の部活動における宮城県仙台第二高等学校との定期戦で、硬式野球定期戦と同時期に行われる。柔道定期戦は年2回で、冬期にも行われる。
- 柔道
- バスケットボール
- バレーボール
このほかラグビー部の定期戦を正月元旦に開催しているが、寒中、雪中が重なることが多く観客は少ない。
[編集] 山小屋移動ホームルーム
2学年の宿泊行事として、宮城蔵王の仙台一高井戸沢小屋で行われていた。現在は週休二日制などの影響により、学年行事としての山小屋HRは中止され、2002年度より下記の東京移動HRと呼ばれる行事に変わった。しかし山小屋HRは形を発起人制の行事に変え、有志により今日まで続けられている。山岳部OBなどを含め毎年30~40名ほどの参加者がいる。上下水道設備は当然なく、がけを下った沢への水汲み、トイレ堀りは思春期の高校生を鍛える大切な奉仕活動であった。この山小屋は夏の時期地学部の流星観測の拠点ともなる。
[編集] 東京移動ホームルーム
2002年度より、2学年時の行事として毎年6月から7月頃に行われている。東京に宿を取り、大学や企業を見学をすることが主な目的。夜には宿にて卒業生との懇談会も開催されている。しかし訪問大学や企業数の多さによる過密スケジュールであったり、行きたくも無いところに行かされるなどという声もあったりなどと言う不満点も多く、まだ模索段階と言える。
[編集] 合同巡検
1学年時における宿泊行事で、1977年より毎年6月から7月頃に行われている。網地島という仙台湾内の島での島の生態や環境の調査といった生物や地学の実習や、石巻市の漁業関係施設や女川原子力PRセンターの訪問などの政治経済の実習を兼ねる。研修後のレポート提出がある場合が多い。
[編集] 修学旅行
ない。京都で芸者遊びをして借金を抱えたものが続出した、旅館で騒いで床が抜けた等の武勇伝により消滅したとの話もあるが、真相は定かではない。遠足という高校生には不似合いな行事もある(あった?)が、現地集合現地解散などといういい加減な運営、山形への温泉旅行とか、日帰りならば何をやってもクラスの自由というめちゃくちゃなものである。岩手へ行くはずが、列車が切り離され秋田へ行ってしまったとか、出欠だけとって行方をくらますなど、学園漫画の世界が現実に存在している。
[編集] 壱高祭
仙台一高の文化祭として毎年8月下旬もしくは9月初旬に3日間を使って行われており(1976年度は開催されず)、生徒からの発起人から成り立つ「壱高祭実行委員会」によって運営される。元来、1945年より「文化祭」という名前で毎年10月に行われていたが、1957年に「壱高祭」と改称され、2004年に行われた壱高祭で第47回を数えた。近年では、映画「ウォーターボーイズ」の影響を受けて始まった、水泳部のシンクロ(WATER BOYZ)の公演が好評を博し、3日間で延べ数千人から1万人近い観客を動員しているなど、東北では随一の規模を誇る文化祭となっている。校舎内での一般展示やステージ発表、夜祭など、見どころは満載である。
[編集] 強歩大会
仙台一高の秋の風物詩として1965年より毎年10月頃に行われている。競歩ではなく「強歩」である。学校を早朝に出発し、仙台市内を大きく回って秋保温泉まで約40kmを歩く。距離の違う2種類のコースがあり、年度ごとにローテーションをする。なお、この大会は「雨天決行」であり、実際1965年から2006年までの41年間、一回も中止されていない。2004年の第39回大会では、台風接近により他校が次々に休校を決定する中、一高は大会決行を決定した。一高の校風を具現化する行事の一つである。
[編集] 部活動
生徒は、運動部・学芸部・同好会・愛好会のいずれか1つ以上への加入を義務付けられる。愛好会は予算を請求することが出来ない。同好会が部に、愛好会が同好会に昇格するためには、生徒総会で承認される必要がある。
以下に部活動の一覧を示す。なお、「壱高祭実行委員」という生徒からの発起人により組織されるものもある。
[編集] 運動部
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[編集] 学芸部
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[編集] 同好会
- ギター同好会
- 鉄道研究同好会
- 図書同好会
[編集] 愛好会
- 少林寺拳法愛好会
- 数学愛好会
- 竹蜻蛉愛好会
- フットサル愛好会(2006年設立)
[編集] 同窓会
宮城県仙台第一高等学校同窓会と称する。各期、各地域、各職域などにそれぞれ同窓会の支部が存在している。それぞれさかんに行事が行われている。また毎年行われる大納涼大会は卒業生が多く集まる。
- 各期
- 48会(中48回)
- 四修会(中52回)
- 一・一会(中54回・高1回)
- 二期会(高2回)
- 六光会(高6回)
- 七萩会(高7回)
- じっかい(高10回)
- 充志会(高14回)
- 重期会(高15回)
- 楡の会(高20回)
- 玲瓏会(高22回)
- 東朋会(高24回)
- Nozzo33(高33回)
- など
- 地域支部
- 岩手県支部
- 塩竈支部
- 仙台支部
- 亘理一高会
- 白石刈田一高会
- 福島茶畑会
- 東京支部
- 中京支部
- 関西茶畑会
- 広島支部
- など
- 職域支部
- 宮城県庁茶畑会
- 仙台市役所茶畑会
- 東北学院教職員一中・一高会
- 仙台市学校教職員茶畑会
- 東北電力茶畑会
- 一医会
- 萩歯会
- 七十七銀行茶畑会
- など
- 部OB会
- 広瀬会(硬式野球部OB会)
- 『仙台一高新聞』OB会
- 萩友会(バスケットボール部OB会)
- 応援団幹部OB会
- など
[編集] 大納涼大会
2006年で第50回を数える行事。毎年8月15日に行われる。卒業生同士の懇親を深めるためとされる。 毎年厄年にあたる期が幹事となる。
[編集] 著名な卒業生
- 青木存義(中?回、故人) - どんぐりころころの作詞者
- 真山青果(中3回、故人) - 作家
- 吉野作造(中3回、故人) - 政治学者
- 奥田新三(中 、故人) - 商工次官、セントラル硝子社長・会長
- 矢田挿雲(中6回、故人) - 作家
- 一力次郎(中16回、故人) - 元河北新報社社長
- 内ヶ崎贇五郎(中19回、故人) - 元東北電力社長
- 岩越忠恕(中30回、故人) - 元日産自動車社長
- 高橋功(中31回、故人) - 元シュバイツァー病院医師
- 加藤陸奥雄(中35回、故人) - 第13代東北大学総長
- 武田豊(中37回、故人) - 元新日本製鐵会長
- 佐藤功(中38回) - 憲法学者、上智大学名誉教授
- 戸石泰一(中42回、旧教員、故人) - 作家
- 石田名香雄(中46回) - 第15代東北大学総長
- 吉江英四郎(中47回、故人) - 元プロ野球選手
- 一力一夫(中49回) - 河北新報社社主・会長
- 佐藤道夫(高3回) - 参議院議員(民主党)
- 菅原文太(高4回) - 俳優
- 井上ひさし(高5回) - 作家
- 樋口陽一(高5回) - 憲法学者、日本学士院会員、東京大学名誉教授、東北大学名誉教授
- 藤原作弥(高8回) - 元日本銀行副総裁
- 小池光(高18回) - 歌人
- 野家啓一(高19回) - 哲学者、東北大学教授
- 桜井充(高27回) - 参議院議員(民主党)
- 手間本北栄(通27回)-彩書家
- 佐伯一麦(高30回) - 作家
- 一力雅彦(高31回) - 河北新報社社長
- 岩井俊二(高33回) - 映画監督
- 坂本タクマ(高38回) - 漫画家
- 愛知治郎(高40回) - 参議院議員(自民党)
- 志賀賢太郎(高45回) - プロレスラー(プロレスリング・ノア所属)
- 田口隆祐(高50回) - プロレスラー(新日本プロレス所属)
[編集] その他(未分類)
- ぴしーコール/p∫i:/
- 一高生のゆたかな批判精神の象徴。多くは不適切な発言への不満及び批判の表明のために発せられるが、つっこみ、あおり、または意味もなく発せられることもある。これを的確に用いられるようになれば立派な一高生であり、卒業時には立派な批判力を身につけることができる。あたりかまわず他校生にもこれをやるので、食らったほうは何がなんだかわからずぽかんとしている。
- 例:先生「テストを返却します」
- 一同「ぴしー!!」
- 「壱高」
- ここ最近、学校内では「一高」と表記されるものに対し、大数字の『壱』を用いて「壱高」と表記する場合がふえている。運動部がよく好んで使っており、まれにこの旧字体「壹」も用いられる。理由は難しい商用数字のほうがかっこいいからだと思われる。例:仙台壱高、壱高祭
- 連坊ガキ
- 近くの仙台市立連坊小路小学校に通う小学生のことをこのように呼ぶ。仙台一高の敷地を通って通学する小学生が多いことと、校庭を使ってサッカーなどをする小学生がいるため、特別に連坊ガキという呼称があるものと思われる。
- 一高コンバットマーチ
- 「一高の常識、世界の非常識」
- 一高の自由さを的確に表現した名言。一高では日常茶飯事なことも、世間様が見ると驚きをあらわにすることのたとえ。セブンイレブン一高前店から一高まで、生徒がお湯の入ったカップラーメンをそろそろと運ぶ姿にあきれた教師が、あきらめ半分に生徒をたしなめたさい使われたという。
- 世間から見た一高
- 一高のイメージで最も多いのが「変人」で、「頭が良い」「気持ち悪い」と続く。あながちその評価は間違っておらず、むしろ一高生当人には誉め言葉になっていると考えている可能性が高い。中学でも似たような評価で落ち着いているらしく、この評判を恐れてか仙台向山高等学校に進路をとる学生も多い。しかし嫌われているかといえばそうでもなく、共学化に関してのアンケートでは、「一高がなくなるのは寂しい」という意見が多数よせられた。
[編集] 関連項目
[編集] 関連文献
- 仙台一中・一高百年史(1992年) - 仙台一中・一高百年史編纂委員会編集