アルベルト・シュバイツァー
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アルベルト・シュバイツァー(Albert Schweitzer 1875年1月14日 ドイツ帝国オーバーエルザス・カイザースベルク Kaysersberg(現フランス・オ=ラン県ケゼルスベルグ) - 1965年9月4日)は、ドイツ出身の神学者・哲学者・医者・音楽家。30歳の時、医療と伝道に生きることを志し、アフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネにおいて、生涯を原住民への医療などに捧げた。「生命への畏敬」への哲学などでも知られ、世界平和にも貢献。「密林の聖者」とまで呼ばれている。他に音楽にも精通し、バッハ研究でも有名。マザー・テレサやマハトマ・ガンジーと並び、20世紀のヒューマニストとして知られている人物である。日本においても、内村鑑三などによって古くから紹介され、その業績は野口英世のように児童向けの読み物においても触れることのできる人物である。
[編集] 生涯
シュバイツァーは、1875年にアルザスに牧師の子として生まれる。アルザス地方は、独仏の紛争地であり、両国によって絶えず領土争いをされていたところで、シュバイツァー自身もドイツ語とフランス語両方に堪能であった。7歳の頃から、鍵盤楽器を習い、14歳の頃にはパイプオルガンを習う。これは後のバッハの研究の下地となる。高等学校卒業後、シュトラスブルク(ストラスブール)大学に進学。神学博士・哲学博士を取得する。哲学博士の論文は『カントの宗教哲学』であった。21歳の時、30歳までは芸術と科学を身に付けることを許されていると考え、30歳の時に改めて医学を学ぶ。38歳の時に医学博士を得、当時医療施設に困っていたガボン(当時仏領赤道アフリカの一部)のランバレネで活動しようと決め、旅立つ。41歳のとき、「生命への畏敬」(Ehrfurcht vor dem Leben)という概念にたどり着く。この概念は、後の世界平和への訴えとなった。医療活動も第一次世界大戦などによって、中断され、ガボンがフランス領であったために、国籍がドイツであったシュバイツァーは、捕虜となりヨーロッパへ帰還させられる。保釈後、ヨーロッパ各地で講演および、病院の資金援助のためにパイプオルガンの演奏活動を行い名声を得るとともにシュバイツァーの活動が次第に世間に知れ渡るようになる。その後も、助手らにも病院を任せ、アフリカでの医療活動とヨーロッパにおける講演活動とを行き来を繰り返す。第二次世界大戦後は広島と長崎に核爆弾を落とされたのを知り、核問題を中心に戦争反対運動を展開。1952年には、ノーベル平和賞を受賞する。晩年もランバレネにおいて医療活動を展開していたが、1965年に90歳で死去し、同地に埋葬された。好物は風月堂のゴーフルであり、ランバレネを訪れる日本人はゴーフルを持参するのが通例だった。
思想家・音楽研究家としての著作に、『カントの宗教哲学』『バッハ』(いずれも邦訳あり)があるが、いずれも一級の研究書として、研究者らに受け入れられている。神学者としての著作の「イエス伝」は、イエス伝の研究史的見地から労作であり、現在においても評価がたかい。他にゲーテやインド思想などにも言及しており、日本でも白水社より全集が刊行されている。なかでも主著として扱われているのが『水と原生林の間で』である。
一般にはキリスト教の伝道と医療活動およびその平和活動を通して、シュバイツァーの活動は高く評価されているが、日本の児童文学者寺村輝夫が伝記『アフリカのシュバイツァー』で記しているように、実はアフリカ現地での評判は決してよいものではない。自らの神学思想を現地の文化より優先し、また同時代の知識人たちの大半と同様に白人優位主義者の側面を持っていたことも事実であり、彼については西洋からの視線だけではなくアフリカからの視線でも検証する必要もある。現在においてもアフリカの一部の保守階層を中心に、ヨーロッパの列強の帝国主義・侵略戦争・植民地支配のシンボルとして扱われるケースがあることも言及しておく必要がある。
[編集] 「生命への畏敬」の哲学
[編集] 音楽家としてのシュバイツァー
シュバイツァーは、音楽の世界でも価値ある業績を残した。彼はオイゲン・ミュンヒ(指揮者シャルル・ミュンシュの叔父である)と、シャルル・マリー・ヴィドールにオルガンを学び、J.S.バッハに深い傾倒を示した。
その著作『ヨハン・ゼバスティアン・バッハ』(1904年フランス語による初版、1908年ドイツ語による増補版、邦訳あり)は、厳密な歴史研究の点では、既に過去の文献となっている。しかし、随所に彼のバッハへの深い理解と鋭い直感がみられ、魅力的な作曲家像を描くことに成功しており、いまなお一読の価値を失っていない。 また、その序文でヴィドールが述べているように、実践的な音楽家としての視点が反映されているのが大きな特色で、当時一般的だったロマン的な誇張の多いバッハ演奏に異議を唱え、歴史的な根拠を元にした演奏法の研究による解釈の重要性を説いている。これは20世紀の演奏史上画期的な視点であり、今日のいわゆる「オーセンティックな演奏様式」のさきがけとなったものであった。
オルガン奏者としては、若き日にはパリのバッハ協会のオルガニストをつとめたほどの腕を持っており、第二次世界大戦後の晩年にいたるまで公開演奏を行っていた。1935年以降に行った録音も残されているが、解釈の深さに比して技巧的な弱さがみられ、残念ながら必ずしもその技量を十全に伝えるものにはなっていないといわれている。