双葉山定次
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双葉山 定次(ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1968年12月16日)は、大分県宇佐市出身の力士。第35代横綱。 本名、龝吉 定次(あきよし さだじ)。 身長179cm、体重130kg。
少年時代の負傷が元で右目が半失明状態(5歳の時吹矢が右目に当たったらしいが本人は覚えていないらしい)だったことや、右手の小指が不自由(事故で2度も右手の小指に重傷を負いその後遺症による)、などのハンデを抱えながら、「木鶏」(もっけい=『荘子』にでてくる鍛えられた闘鶏が木彫りの鶏のように静かであるさま)を目標に相撲道に精進し、昭和屈指の大力士となった。69連勝、優勝12回、全勝8回などを記録。年2場所の時代の力士であるがその数々の大記録は未だに破られていないものも多い。日中戦争の泥沼化、太平洋戦争が間近に迫る時局もあり、国民的英雄となった。「双葉の前に双葉無し、双葉の後に双葉無し」の言葉のように、相撲の神様と呼ぶ人も存在し史上最強の横綱と考える人は多い。
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[編集] 69連勝以前
昭和2年(1927年)、県警の双川部長の世話で立浪部屋に入門する。四股名の双葉山は「栴檀は双葉より芳し」からつけた。さらに入門の際に世話になった双川氏の1字も含まれる。
入幕以前は目立った力士ではなかったが、成績は4勝2敗が多く(当時幕下以下は1場所6番)大きく勝ち越すことがない一方で負け越しもなく(3勝3敗は何度かあった)、年寄・春日野から、「誰とやってもちょっとだけ強い」と評されたという。しかし、1931年5月場所に、19歳3ヶ月で新十両をはたしたことを考えると、決して平凡な力士ではなかったといえよう。
昭和7年(1932年)2月、春秋園事件での関取の大量脱退により、実力のともなわぬうちに繰り上げ入幕となるが、相撲が正攻法すぎて上位を脅かすということがなく、しばらくはいわゆる「エレベーター力士」に甘んじた。ただ足腰は非常に強い(本人の回想によると舟に乗っているうちに自然と鍛えられたらしい)ため攻め込まれても簡単には土俵を割らず土俵際で逆転することが多く「うっちゃり双葉」という不名誉なアダ名をつけられていた。この時期の双葉山を時の第一人者玉錦三右エ門だけが、「双葉の相撲はあれで良いのだ、今に力がついてくれば欠点が欠点でなくなる」と評価したという。
昭和10年(1935年)1月には小結に昇進するが4勝6敗1分と負け越して前頭筆頭に落ち5月も4勝7敗と負け越した。この頃までは苦労の連続だった。
[編集] 69連勝
1935年蓄膿症の手術を機に体重が増え、それまで「うっちゃり双葉」と言われたように、立会いで相手に押し込まれ仕方無く土俵際でうっちゃると言う取り口が一変した。立合い、「後の先をとる」を地で行き相手より一瞬遅れて立つように見えながら先手を取り、右四つに組みとめた後、吊り寄り、乃至必殺の左上手投げで相手を下すようになった。1936年1月場所6日目、玉錦に敗れるが、残りを連勝して9勝2敗。続く5月場所では玉錦を初めて破って11戦全勝で初優勝。以降、1938年5月場所までを5場所連続全勝優勝、1939年1月場所4日目(1月15日)、安藝ノ海節男に敗れるまで69連勝を記録。双葉山が三役に上がった頃、一場所の取組日数は、11日だったが、双葉山人気が凄く1月場所でも徹夜で入場券を求めるファンが急増した為、日数が13日となり、やがて現在と同じ15日となった。
連勝ストップの逸話としては、前年の中国巡業でアメーバー赤痢に感染して体重が激減、体調も最悪だったので、双葉山は当初、休場を考えていたが、力士会長の横綱玉錦が虫垂炎を悪化させて急死(双葉山が2代目会長になった)した為、責任感の強い双葉山は、体調が最悪の状態で強行出場し、この場所、安藝ノ海に敗れて連勝が止まると5日目鹿嶌洋起市、6日目両國梶之助と3連敗し9日目には玉錦の跡を継いだ玉ノ海梅吉に敗れ4敗を喫した。安藝ノ海に敗れた一番、安藝ノ海は、双葉山の右掬い投げに対して左外掛けを掛けたが、流石は双葉山、天下の二枚腰で一度堪えた後、安藝ノ海の身体を担ぎあげるようにして左外掛けをはずした後、再度、右から掬い投げにいったので、安藝ノ海の身体は、右側に傾きながら双葉山と共に倒れた為、遠目には、安藝ノ海が右外掛けを掛けたかのように見えたので、翌日の各新聞は、「安藝ノ海の右外掛け」と誤って報じた。ある記者は「カメラとて正確とは限らん」と言ったとも伝わる。大相撲ラジオ中継では当日の解説者によって「70古来やはり稀なり」の名言が流れた。
双葉山は、約3年ぶりに黒星を喫し、69連勝で止められたにもかかわらず、普段通り一礼をし、まったく表情も変えずに東の花道を引き揚げていった。同じ東方の支度部屋を使っていた横綱男女ノ川が、「あの男は勝っても負けてもまったく変わらないな」と語っている。
そしてその日の夜、双葉山は師と仰ぐ安岡正篤に「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」と打電している。これには双葉山の言葉を友人が取り次いだものという説もある。同夜、双葉山は以前から約束されていた大分県人会主催の激励会に出席しており、後者の説を採るなら、同会で発せられた言葉であったことになる。70連勝ならずのその夜のことになってしまったため、急遽敗戦をなぐさめる会の雰囲気になってしまったが、いつもと変わらず現れた双葉山の態度に列席者は感銘を受けたという。
また、双葉山の70連勝を阻止した安藝ノ海がこれを師匠出羽海(元小結両國)に報告した際、出羽海は「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」と言ったという。これも、藤島(元横綱常ノ花)の言葉だったという説がある。28代庄之助が当時出羽海部屋の豆行司で、出羽海の付人をしていてこの時の言葉を聞いたと証言しており、後者の藤島発言説を否定している。いずれにしてももともと相撲界に古くからある金言でもあって、ふたりとも同様のことを言ったのではないか、というむきもある。
横綱免許を獲得した頃、双葉山は若い力士の四股名だから横綱を契機に3代目梅ヶ谷を襲名しないかと話を持ちかけられたが本人はこれを断わり最後まで双葉山で通した。現在では双葉山の四股名は止め名になっている。
[編集] 69連勝以降
安藝ノ海によって69連勝のストップした場所では、結果的に4敗し、翌昭和14年(1939年)5月場所も危ぶまれたが、初めて15日制で行われた本場所で全勝と復活。その後、15年5月場所11日目までに4敗を喫し、「信念の歯車が狂った」といって途中休場し滝に27日間うたれるような、求道者的態度で相撲道にはげみ、第一人者の座を守った。
一方で、一般人女性と結婚したり、部屋を離れ自ら道場を開くなど、師匠・立浪との関係は必ずしも良好ではなかった。大派閥である出羽海一門にはげしい対抗心をもやす師匠と、力士会会長としての立場との間で、多くの葛藤があったとされている。
昭和17年から昭和19年にかけて4連覇、36連勝、見方によってはこの時の双葉山が1番強かったという人もいる。
[編集] 引退
昭和19年(1944年)11月場所で幕下の頃から目をかけていた東富士欽壹に敗れたのが、引退を決意した時であったという。翌日は増位山に不戦勝を与えて休場したが、協会や関係者に翻意されこの時は撤回した。翌1945年6月場所初日、相模川佶延を破ったが、その後休場、このときは休場届提出後に割がくまれたために不戦敗はつかず成績は1勝6休、結果的にこの取組が取り納めとなった。
引退の直接の動機として、16尺土俵の問題があったといわれている。相撲協会は連合国軍最高司令官総司令部に取り入るため、相撲をより面白くしようとそれまでの15尺土俵から16尺へ広げようとしていた。双葉山はこれに反対だったといわれている。昭和20年(1945年)9月、相撲協会は土俵を4.84m(16尺)と決定し、昭和20年11月場所が行われた。双葉山は番付には名をのこしていたが場所には出場せず、結果的にそれが最終場所となった。その引退は太平洋戦争での敗戦と重なることになり、東冨士との対戦が結果として最後の土俵上での黒星になった。(土俵は結局その11月の1場所だけで、力士会の反対で元の15尺に戻された。)
幕内通算成績は、31場所で276勝68敗1分33休。繰上げ入幕のため、通算での勝率では他の大横綱に一歩譲ることになったが、横綱昇進後の勝率は8割8分2厘(取り直し制度導入以降の最高)、優勝12回、全勝8回(ともに年2場所制での最多)、5場所連続全勝(明治以降史上初)、関脇1場所、大関2場所は全て全勝で通過(史上唯一)など、不滅の足跡を残した。
[編集] 引退後
現役中から、その実績を評価され現役力士のまま弟子の育成を許され、「双葉山相撲道場」を開いていたが、引退後年寄時津風を襲名、時津風部屋を興す。先代の時津風は元大坂相撲の小九紋竜であり現役時代から悪評が高かったため当時周囲はそんな悪い名跡を継承することはない、雷(いかづち)の名跡こそ双葉山にふさわしいと進言したが、当の本人は年寄名跡はどれも同じだと言って(一説には「悪い名跡なら私が良くします」と言ったとも)そのまま時津風を襲名した。雷は歴代の梅ヶ谷が襲名した名跡でありこのあたり現役時代に3代目梅ヶ谷の襲名を断った話とよく似ている。
年寄時津風として1横綱(鏡里喜代治)、3大関(大内山平吉、北葉山英俊、豊山勝男)等数多くの名力士を育成した。弟子の青ノ里盛の話では昭和28年(1953年)にはまだ自ら弟子に稽古をつけていたという。
ちなみに現在でも時津風部屋は、「双葉山相撲道場」の看板を正式な部屋名とともに掲げている。北葉山が入門した時、「時津風部屋はどこですか?」と聞いても誰も知らず、「"道場"ならそこだよ」と教えられたという。
昭和21年(1946年)11月6日から11月18日にかけてメモリアルホール(両国国技館)で行なわれた本場所は不入りだったが、千秋楽の翌日双葉山の引退相撲が行われこの日だけは超満員だった。現在では断髪式の時は土俵上に用意したいすに座るが双葉山断髪式の写真を見ると土俵上で正座している。
昭和22年(1947年)1月、金沢で新宗教、璽宇教教祖の璽光尊(長岡良子)とともに警察に逮捕される(璽光尊事件)。後道場にもどる。
出羽海理事長自殺未遂事件の後に相撲協会理事長もつとめ、停年制の実施や、部屋別総当り制の実施、相撲茶屋制度の廃止などの改革に尽力した。
昭和35年(1960年)に相撲協会の財団法人化35周年式典が行なわれた際に理事長として挨拶状を読み上げることになったが当日挨拶状を渡す係だった秀ノ山が挨拶状を忘れ慌てて取りに戻った。時津風は秀ノ山が戻るまでの間土俵上で直立不動、当初失笑のもれていた館内はやがて静まり、そして拍手の渦となった。涙をこぼすものもあったという。その姿は終生希求した「木鶏」そのものであった。
昭和43年(1968年)12月16日、劇症肝炎にて逝去。享年56。
[編集] その他
- 「二葉山」を名乗った時期があるように書かれることもあるが、これは下位力士だった時代に番付上に誤記されたもの。こうした誤記や略字・当て字での筆記は、現在でもたまに見られるので、それを改名というのは正しくない。少なくとも当人の意識では「双葉山」で現役を通した。
- 現在の大相撲で、力士は力水を最初に一度しかつけないが、これは双葉山から始まっている。彼以前の時代には、仕切りなおしのたびに力水をつける者も珍しくなかった。新弟子の頃、「力水は武士にとっての水盃だ」と兄弟子から教えられ、死を覚悟しての水盃なら、一度つければ十分だと考えた――という話が広く流布しているが、双葉山自身はこれを否定(多分に、昭和10年代の時局も影響してつくられた話であるだろう)、「ただ土俵上であまり無駄なことはするまいと思っただけ」と語っている。
- 右目の状態は、入門から入幕の頃にかけては、かすんだり物が二重に見えたりしていたが、やがてほとんど見えなくなったという。なまじ見えるよりその方が都合が良かったと、当人は後に語っている。対戦力士の側にも、「あの人は目の前の相手と違うものを見て相撲を取っている」といった証言が多く残る。実際双葉山の右目はやや白濁しており、右目に白い星があった。そのことから相手は神眼だといって恐れたという。ちなみに、横綱昇進後に喫した23敗は、安藝ノ海に69連勝を止められた一番を含め、大半が右側から攻められてのものである。特に、櫻錦利市との敗戦に関しては、飛び違いという決まり手であったことも、双葉山は目が悪いのではないかという疑惑をそのころ抱かせたこともあった。
- 孫娘は現在舞台女優の穐吉美羽。
[編集] 双葉山の名言
- 「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」
- 「相撲は体で覚えて心で悟れ」
- 「われ未だ木鶏たりえず」
- 「勝負師は寡黙であれ」
- 「一日に十分間だけ精神を集中させることは誰にでも出来るはずだ」
[編集] 年譜
- 1912年(明治45年)2月9日 大分県宇佐郡天津村布津部(現大分県宇佐市大字下庄)、船舶運輸業を営む父・龝吉義広の次男として生まれる。
- 1927年(昭和2年)2月 双川県警部長の紹介で立浪部屋に入門。
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- 3月 双葉山の名で初土俵。
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- 1926年(昭和6年)5月 新十両、初めて負け越す。
- 1932年(昭和7年)2月 春秋園事件のため繰上げで新入幕。
- 1936年(昭和11年)1月 連勝始まる。
- 1937年(昭和12年)11月 吉田司家から横綱免許状を授与される。
- 1939年(昭和14年)1月 安藝ノ海に負け69連勝で止まる。
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- 4月 小柴澄子と結婚。
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- 1941年(昭和16年)5月 双葉山相撲道場を開設。
- 1943年(昭和18年)10月 九州大宰府に双葉山相撲練成道場を開設。
- 1944年(昭和19年)6月 長男・経治誕生。
- 1945年(昭和20年)11月 引退表明
- 1946年(昭和21年)11月 両国国技館で引退相撲を挙行、年寄時津風を襲名。
- 1947年(昭和22年)10月 相撲協会の理事に就任
- 1962年(昭和37年)12月 紫綬褒章を受章
- 1968年(昭和43年)12月16日 劇症肝炎のため死去、享年56歳
[編集] 関連書籍
- 『一人さみしき双葉山』 工藤美代子著 ちくま文庫 ISBN 4480025162