大内山平吉
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大内山平吉(おおうちやま へいきち、1926年(大正15年)6月19日 - 1985年(昭和60年)11月1日)は、大相撲の力士で最高位は大関。身長6尺6寸7分(約203cm)、体重41貫(153.75kg)の巨体だった。
茨城県ひたちなか市に漁師の長男として生まれ、よく家計を手伝っていた。潜水が大の得意で鮑を捕る腕は海女にも劣らなかった。身長は初めは平均よりやや高いといった程度だったが14歳頃から大きくなる。戦時中父親とともに海軍に徴用され対潜哨戒部隊に配属されたが、おかげで食うに困ることだけはなく大きく育ち、周囲の海軍軍人たちの口利きで1944年(昭和19年)に双葉山道場(後の時津風部屋)へ入門。
大内山を名乗りたかったが、これは皇居を意味するため、戦中は本名の大内で取った。師匠や本人いわく不敬罪を恐れたのだとか。1948年5月場所に十両に昇進してやっと大内山を名乗らせてもらえた。1949年1月場所に新入幕を果たした。
昭和30年3月、この場所大関とりとなる大内山は12勝2敗で千秋楽を迎える。対戦相手は前場所優勝しこの場所も絶好調、ただ1人1敗の横綱千代の山。当時横綱は4人いたのでわざわざ千秋楽に関脇と対戦させるまでもないが横綱鏡里と吉葉山、さらに当時ただ1人の大関三根山が休場、栃錦は皆勤したが千代の山とは同門で対戦できず優勝争いをおもしろくする意味もあってこの日になった。大内山は見事に勝って両者13勝2敗、決定戦での千代の山との再戦には負けて優勝はできなかったが5月、当時大関争いといわれた若ノ花や松登に先行して大関になった。江戸時代の看板大関を別にすれば史上初の身長2mを超える大関の登場に当時「大きすぎる力士は出世しない」という悪い縁起を破ったといわれた。
巨躯のわりにバランスの取れた体型で、小兵を苦手にするということもなく(むしろ小兵には強かった)大きな取り口から「揚子江」のあだ名をつけられ横綱昇進を期待された。膝の故障や末端肥大症(大きい人に比較的多く見られる奇病で特定の場所だけが大きくなり変形する、大内山は顎が伸びて噛み合わなくなり顔が変形した)に侵されて大関から落ち大成することはなかったが、同世代の栃錦や初代若乃花(当時若ノ花)とは数々の名勝負を演じた。中でも新大関だった1955年(昭和30年)5月場所千秋楽、栃錦に対して立合から猛烈な突っ張り、両差を許せば閂に極め、ついには乾坤一擲の首投げでその巨体を舞わされた一番は、敗れたとはいえ後々まで語り草になった。栃錦にとっても、師匠春日野(元栃木山)から、「優勝が決まった後の千秋楽で、よくあれだけの相撲を取った」といわれ、生涯唯一ほめられた相撲だったという。また若乃花との対戦で投げ飛ばされた際に長い脚が行司を跳ね飛ばしてしまうという一幕もあった。この時跳ね飛ばされて勝負が決まる瞬間を見逃した行司は検査長(現在の正面審判長)藤嶌に「どちらが勝ちましたか」と確認をとったという。
引退後は年寄錣山を襲名、後に立田山として勝負検査役を勤めたが座っても大きいので真後ろの客は土俵が見えなかったらしい。同じ理由で兄弟子の不動岩は検査役から異動したが彼はそのままだったらしい。師匠がなくなり後継者争いに敗れた立田川が現役の力士を1名も連れずに独立した際には立田川について行きようやく関取が誕生して喜んでいた所で亡くなった。