玉錦三右エ門
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玉錦 三右エ門(たまにしき さんえもん、1903年(明治36年)12月15日 - 1938年(昭和13年)12月4日)は、日本の大相撲の第32代横綱。昭和初期、双葉山の台頭以前に一時代を築いた。また二枚鑑札となってからはそれまで稽古場さえなく共同の稽古場を使うか他の部屋の預かり弟子にならなければ稽古もできない程の小部屋であった二所ノ関部屋の師匠として弟子集めに奔走、大部屋へのしあげた。数々の奇行でも知られる。優勝9回、うち1回が全勝、優勝同点が2回ある。
[編集] 略歴
大正8年1月初土俵、玉錦の四股名は師匠二所ノ関(関脇・海山太郎)の妻「おたま」と横綱大錦にちなむという。夫婦の寝物語で四股名を決められたという逸話は、後世の創作とも言われているが、師匠からはそれくらい期待薄な新弟子と見られていた。実際素質には恵まれていなかった。
まだ体格不足で正式に初土俵を踏めず力士の卵として過ごしていた頃横綱太刀山が「儂を背負って土俵一周したら米1俵やるぞ」と言ったのを聞きつけてこれに挑戦、最初はもう少しで降参したが再挑戦、今度は見事せしめた。
力士としては小兵となる体躯ながら無類の稽古熱心であり、「ボロ錦」とあだ名される猛稽古で素質の不足を補って実力をつけ、大正14年1月新十両、1年後には入幕を果たす。体格の不利を補うため1本差しの突進という取り口であり時には腹に乗せての吊りもあった。
昭和3年5月関脇に昇進すると以降、
- 昭和3年5月 9勝2敗 優勝旗手
- 昭和3年10月 6勝5敗
- 昭和4年1月 10勝1敗 幕内最高優勝・優勝旗手
- 昭和4年3月 9勝2敗 優勝同点・優勝旗手
- 昭和4年5月 9勝2敗 優勝旗手
- 昭和4年9月 7勝4敗
- 昭和5年1月 9勝2敗 優勝同点・優勝旗手
と現在なら当然大関、大関でこの成績なら横綱まで期待できる程安定した好成績を続けたが大関になれなかった。その粗暴な性格のためと言われているが、小部屋ゆえの力関係も確かにあっただろう。また当時は既に味方陣営には常陸岩と大ノ里、相手陣営には豊國と能代潟という4大関で上が詰まっていたという同情すべき事情もある。現在でこそ5大関は珍しくはないが当時としては考えられないことだった。優勝同点の2場所はいずれも豊國が番付上位優勝の制度で優勝、しかも2場所とも豊國対玉錦の対戦は玉錦が勝っているので当時決定戦があれば少なくとも1回は玉錦の優勝だっただろう。
昭和5年3月の8勝3敗と相手方の大関能代潟の成績不振による陥落で反対陣営に回ることでようやく大関になるが、以後も昭和5年10月から昭和6年3月までの3場所連続優勝で横綱を見送られるなどした。小部屋の不運もあるが、当時、年間場所数は東京2場所、関西2場所の年4場所あり、番付の昇降は毎場所ごとでは無く、2場所(東京、関西本場所)合算の成績により、年2回番付が移動した。従って4場所連続で優勝しても2連覇と言う扱いになり、このため大相撲の東西合併から春秋園事件までの間、年東西4場所制下では誰も横綱に昇進していない。しかし年4場所から2場所に戻った後に横綱免許を獲得した武藏山や男女ノ川は大関時代に1度も優勝どころか優勝同点さえ記録していない。番付で優遇され続けた両者に対し冷遇され続けた玉錦にとってこれは納得できたものではないだろう。昭和6年5月、この場所も優勝なら4連覇となる。これならいくら何でも綱だと思われていたが場所前に師匠が倒れ看病疲れで8勝3敗に終わり綱が遠のいた。
昭和7年1月6日に春秋園事件が発生すると脱退組からの勧誘もあったがこれを追い返し幕内力士が多く脱退した後の相撲界を屋台骨となって支えた。また事件の影響を受けて発足した力士会の初代会長に就任。これを認められ昭和7年10月場所で優勝すると場所後に吉田司家より横綱免許を授与される。昭和6年の宮城山の引退によって発生した昭和最初で唯一の「横綱不在」を埋め、また昭和に誕生した最初の横綱ともなった。昭和10年1月から3連覇、昭和11年1月には夢の全勝優勝を達成した。
同じ小部屋の立浪部屋によく出稽古に通い、特に稽古熱心な双葉山を可愛がった。その双葉山にとって、上位陣の中で最後まで越えられなかった壁であったが、昭和11年5月はじめて彼にやぶれ、これは後世「覇者交代の一番」と語りつがれることになる。同場所を全勝優勝した双葉山は、そのまま連勝記録を69へとのばし、玉錦は打倒双葉の一番手と目されながら、昭和13年九州地方の巡業から帰る船中で虫垂炎を発症、客死した。
現役横綱の死去は江戸時代の谷風についで二例目。のちにやはり現役死する玉の海は、皮肉にも彼の孫弟子にあたる。
[編集] 逸話
良く言えば豪放な親分肌の性格であったと言われ、それにまつわる破天荒な逸話が多い。
激昂しやすい性格であったのは確かなようで、当時相撲取りがケンカだと聞くと、まず誰もが「玉錦か?真鶴か?」と聞いたなどと伝わっている。ケンカでは名うて同士となる真鶴との対戦では土俵の上で頭を殴られると怒って一気に倒してしまった。「ゴロ玉」の異名もあった。一方若い頃稽古をつけられた春日野(元栃木山)にだけはめっぽう弱く、どんな時でも「玉!」と一喝されるとおとなしくなったという。取組に対し強引に物言いをつけることも多かったがどの検査役が説得しても納得しない時でも春日野が説得すれば納得したという記録もある。
番付面などで冷遇されていると出羽海(元小結両國)を逆恨みして日本刀を振り回して追い回したなどというのは誇張されて伝わった逸話とみなすべきだろうが、それくらいはしかねない人物と見られていたことは確かだろう。
一方、師匠が死の床にある最中、本場所中にもかかわらず毎夜徹夜の看病をした、見込がある(または稽古熱心な)若手をみれば部屋や一門の別をこえて稽古をつけた(これはかつて出羽ノ海部屋に預けられていた頃預かり弟子という理由で冷遇された自分をただ1人熱心に面倒を見てくれた栃木山に対して恩義を感じていたことによるという)などの美談も多く残る。後輩の好き嫌いは、はっきりしていて、稽古をよくやる者は、可愛がり、稽古をしない者には、厳しい態度で臨んだ。
また入門したての少年行司などにも温かく接した。27代や28代の木村庄之助が、玉錦から激励され小遣いをもらった話を回想している。
素質には恵まれず出世を予想した者はほとんどいないであろう玉錦が誰よりも早く起きて稽古を始め(午前3時にはもう起きていたという)暇さえあれば土俵に上がる程の稽古熱心で大成したことから自身の猛稽古は後に一門の伝統となった。
八百長が大嫌いで小結時代の昭和3年1月千秋楽には全勝での初優勝を目前にした三杦磯を倒し(優勝は大関常陸岩)武藏山が優勝や横綱を目前にした時にも何度も撃破している。このため國技館内は「玉錦負けてやれ」の大合唱になることも少なくはなかったという。三杦磯との一番では「負ければその場で引退しようと考えていた。誰が見ても八百長といわれるだろうから」と言ったといわれる。
常勝將軍は双葉山につけられたあだ名として有名だが双葉山台頭前は玉錦のあだ名だった。その強さから大関になってからは「玉錦は負けない」から「たまにしきゃ負けない」と言われるようになり負けると國技館内が大騒ぎになり外からでもわかったという。
金星を与えない横綱で、在位12場所で金星配給は4個に過ぎない。大関時代にすでに第一人者でありながら、昇進を見送られ続けたことや、そしてまだ余力を残しての現役死だったせいもあるが、一場所平均の金星配給数という見方をした時、昭和の横綱で彼より少ないのはやはり現役死だった玉の海正洋(在位10場所、金星3個)だけ、大鵬幸喜(在位58場所、金星28個)や千代の富士貢(在位59場所、金星29個)でもわずかにおよばない。
現在の横綱は土俵入りで足を高く上げるがこれは玉錦に由来する。それ以前の横綱は四股踏みでの脚は低く膝を曲げ足裏は下を向いていた。そのまま力強く踏みしめるという形で指導を受けたと思われるが写真を見てもその脚の上がりが非常に大きく足の指が上を向いている。当時この土俵入りは観客から動く錦絵と呼ばれる程に絶賛され横綱土俵入りに新たな見所を与えたといえる。その代わり本来の意味を失ったと見る人もいる。彼以降の横綱は武藏山と男女ノ川は古い四股踏みの型を踏襲しているが双葉山以降は全員が脚を高く上げる四股の踏み方をしている。
1938年(昭和13年)、年寄二所ノ関を襲名してから初の巡業を行なっていた。これは勧進元をつけず玉錦自ら(年寄二所ノ関名義だが)勧進元を勤める手相撲であり、失敗した時の負担を勧進元に分担してもらえないという危険がある代わり成功したら収入は全て自分のものになるという、この時代は玉錦だからこそできるものだった。しかし巡業の2日目に腹が痛いと言うので居合わせた医者が診察すると虫垂炎が悪化して腹膜炎になっていたことが発覚、それも非常に危険な所まで進行していたため医者は病院へとかつぎ込もうとした。しかし玉錦は「儂がそんな病になるものか、どうせ冷え腹程度に決まっている」と病院行きを拒否、その後どうにか説得して連れて行くことになったが迎えが遅れ待っている間に蒸しタオルで腹を揉ませた所痛みが消えたので治ったと思ったらしく「それ見ろ」と言ったがこれが致命的だった。病院に到着するとすぐにでも手術が必要だったが執刀医は開腹して驚愕した。虫垂が破裂して膿が腹腔全体に広がっていた。これは搬送前に蒸しタオルで腹を揉んだせいだった。執刀医は驚きのあまり「玉関はこれでも何ともないのか」と言ったそうである。
元NHKの相撲解説者で、弟弟子の玉ノ海(解説者としては玉の海)によると、玉錦は手術後、水を飲むことを禁じられていたにも関わらず「喉が渇いた」と言っては、氷嚢に入っていた氷を取り出して、ポリポリ齧るなど手術後の患者らしく無い態度ばかり取っていたため、腹膜炎が術後に悪化し、玉ノ海からの輸血も虚しく死に至ったと言う。看護婦が怖がって玉錦の病室に近寄らなかったとも伝わる。
周囲の忠告や気遣いを無視した結果の、いわば自業自得であったかもしれないが、横綱として、そして巡業の勧進元としての責任感もあっただろう。弟子が見舞に来ると巡業の成果を心配して「どうだ、客は入ったか」などときいたという。末期の言葉は「まわしを持って来い、土俵入りをするんだ」だったと伝わる。そして拍手を打ったところで息絶えたそうである。
出羽海一門の創設者常陸山(当時は出羽ノ海)が自ら作成した「不許分家独立」の不文律で一門の結束を図ったのに対し二所ノ関一門の長として「独立したい者は原則として認める」の方針を出し(玉ノ海が年寄二所ノ関を廃業する際に言ったという説もある)一門の幅広い繁栄を考えていた。