羽黒山政司
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
羽黒山政司(はぐろやま・まさじ、1914年11月18日 - 1969年10月14日)は、新潟県中之口村出身の大相撲の第36代横綱。
上京し、風呂屋の三助をやっている時、先代立浪にスカウトされ入門した。序ノ口から幕下まですべて優勝し、関取増員の影響もあって各段1場所のハイスピードで昭和12年(1937年)1月場所で関取に昇進した。現在は、幕下で最低2場所の経験が必要なので、このスピード昇進は今後も破られないと思われる。十両も1場所で突破、同年5月に新入幕となった。
戦前・戦中は同部屋の双葉山の影に隠れた存在だったが、彼の引退後は第一人者として戦後荒廃した相撲界を支えた(当時「これで俺の時代が来た!」という名言を残した)。2度のアキレス腱断裂から奇跡的に復活、12年の長きにわたって横綱に在位した。豪快な土俵入り(不知火型)で人気だった。
優勝回数は7度だが、長く上に双葉山がいて直接対戦がなかった(加えて当時は優勝決定戦がなく同点者は上位優勝という制度がありこれで優勝を逸したこともあった)こと、最盛期に戦後の混乱で場所の開催もままならなかった時期のあることなどから、これは数字以上に高く評価されるべきだろう。全勝4回、4連覇もある。昭和27年(1952年)1月場所での最後の優勝は37歳、最高齢での全勝優勝の記録を樹立し、この記録は2006年現在も破られていない。戦前戦後の優勝額を併せ持つ唯一の力士であり、序ノ口から幕内まで全階級の優勝経験も持つ。
横綱として強かっただけではなく他の力士の危機を救った人格者としても知られる。大関時代は幕下の福住が酔った勢いでタクシー運転手とケンカし、憲兵が仲裁に入って暴力事件となり、あわや銃殺という場面で必死に詫びを入れどうにか許してもらい戦後は十両時代の若ノ花が酒を飲んでいる時に所持金が不足して付人を使い東富士のところへ借りに行かせて除名されそうになった時もこれを食い止めた。
双葉山がいなければ羽黒山が1時代を築いていたという見方もあるが彼の強さは双葉山との稽古によるものが大きくこの見方が果たして本当かどうかはかなり疑わしいところである。
腹が弱かったらしく油の多い食べ物は大嫌いで食べるとすぐに腹を壊した。このため中華料理などは避けていた。また、熱に弱く、37度程度の発熱で大騒ぎをしたという。
先代立浪の娘婿となり、1952年12月の先代逝去後は現役二枚鑑札で立浪部屋を継承し、昭和28年(1953年)9月場所かぎりで現役引退、年寄専任となった。若羽黒朋明を大関に昇進させ、また、襲名中に時津山仁一・安念山治、若羽黒、若浪順の4人の幕内優勝者を出した。