共同通信社
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共同通信社(きょうどうつうしんしゃ)は、日本の通信社である。
社団法人と、その子会社である株式会社の2社が、同じ「共同通信社」という名称で存在している。このため、両者を区別する必要があるときにはそれぞれ、「社団共同」「KK共同」と呼ぶことが多い。
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[編集] 社団法人共同通信社
社団法人共同通信社(きょうどうつうしんしゃ Kyodo News)は、国内外のニュースや写真、記事関連のデータを全国の新聞社、NHK、民間放送局を中心に提供・配信する非営利の通信社。また、共同通信社も他の報道機関と同様に編集委員・論説委員を置くが、論説については「論説参考資料」という形でのみ加盟社に配信している。社説や主張をどのように展開するかは、あくまでも配信を受けた加盟社側の主体性の問題である。
新聞記事の冒頭に(共同)と書いてある記事は共同通信社から配信された記事であるが、それ以外にも加盟紙が(共同)のクレジットをつけずにそのまま掲載している記事もある。契約上、国内ニュースにも(共同)のクレジットを明記することになっているが、沖縄以外の加盟紙で明記する新聞社は少ない。(共同)クレジットを明記すれば、地元記事以外の全ての記事が共同通信配信記事と判断され体裁がつかないためとされる。このため、通信社の配信記事の責任の所在を巡ってトラブルが起こることもある。
[編集] 主な営業内容
[編集] 加盟社への記事配信業務
共同通信社自らが取材したニュース及び、一部の加盟社が取材したニュースなどを加盟社である全国の新聞社、契約社である放送局に配信する。新聞連載4コマ漫画などの配信もする。
[編集] 加盟社へのデータベースサービス
プロ野球、公営競技などの過去のデータなどを配信するデータベース。
[編集] 海外メディアへのニュース配信業務
[編集] 船舶へのニュース配信業務
日本付近だけでなく世界の海を航行する船舶に対し、主に短波を利用してニュース等を配信する。ニュースは紙面の形をとったファクス新聞で正式名称は「共同ニュース」という。
[編集] 沿革
- 1901年 日本広告株式会社および電報通信社が発足(現在の電通)
- 1906年 株式会社日本電報通信社が発足
- 1914年 国際通信社、東方通信社が発足
- 1926年 国際通信社と東方通信社が合併、日本新聞連合社が発足(後に新聞連合社と省略、改称)
- 1936年 新聞連合社の解散を受け、社団法人同盟通信社が発足。同盟通信社の広告事業部門を日本電報通信社に、日本電報通信社の通信事業部門を同盟通信社が引き継ぐ。
- 1945年 同盟通信社の解散を受け、加盟新聞社及び日本放送協会(NHK)の出資により社団法人共同通信社が設立。
- 1972年 株式会社共同通信社を設立
- 1988年 NTT、NECと共同で国内初の全都道府県への光ファイバーによるデジタル通信網を完成。これにより、カラー写真の送信に1時間以上掛かっていたものがわずか8分で送信可能となる。
- 2003年7月 汐留メディアタワー(共同通信社本社ビル)竣工
[編集] 本社
- システム局
- システム企画室
- システム開発部
- システム技術部
- システム管制部
- 国際局
- 海外部
- 中国語ニュース室
[編集] 支社
札幌 仙台 東京 名古屋 大阪 福岡
[編集] 支局
宮城県、愛知県、福岡県を除く全国の県庁所在都市、及び東京、京都、函館、旭川、釧路。
なお支局・支社は地方新聞社の本社内にあることが多い(東京支社は共同通信社本社内、函館・旭川・釧路支局は北海道新聞社の各支社内にある)。
[編集] 海外総・支局
ソウル、平壌、北京、上海、香港、台北、ウランバートル、ハノイ、プノンペン、バンコク、クアラルンプール、シンガポール、マニラ、ジャカルタ、ニューデリー、イスラマバード、カブール、バグダッド、テヘラン、エルサレム、カイロ、ナイロビ、ヨハネスブルグ、ローマ、ベオグラード、ジュネーブ、パリ、ブリュッセル、ロンドン、ベルリン、フランクフルト、モスクワ、ワルシャワ、ウィーン、ニューヨーク、ワシントンD.C.、シアトル、ロサンゼルス、メキシコシティ、リオデジャネイロ、シドニー
2006年(平成18年)9月1日に平壌(朝鮮民主主義人民共和国)に支局を開設した。これは日本の報道機関では初の支局開設となった。
[編集] 海外通信員
サンフランシスコ、ヤンゴン、ストックホルム、ホノルル、ウラジオストク、ブエノスアイレス、カトマンズ、ベイルート、ダッカ
[編集] 加盟社(共同通信の運営に出資)
加盟新聞社とNHKの計59社が社員社として、毎年の予算を負担する社団法人組織をとっている。社員社は日本経済新聞社、産経新聞社のほか、ブロック紙の中日新聞社(東京新聞)、北海道新聞社、西日本新聞社が主で、特にブロック紙の出資比率が高いとされる。社員社でつくる理事会の会長は現在、多田昭重西日本新聞社長が務める。
尚、ニュース番組で報道局フロアなどから放送している際に、ピーピポピポピポと裏で音が流れる事がある。ニュースの第一報(「番外」と呼ばれている)のほか、新聞社・放送局など各メディアへのお知らせが共同通信社から送られるときの注意アナウンスである。「ピーコ」と呼ばれている。また、重大ニュースの第一報では、この「お知らせ」がキーンコーンカーンコーンといった、学校のチャイム風のものになる。そのまま「チャイム」と呼ばれており、「フラッシュ」と呼ばれている重要ニュースの速報を伝えている。大戦争の勃発や天皇崩御はもちろん、国政選挙の大勢が決した時や、衆議院の解散など新聞社が号外を発行するニュースであれば、この“チャイム”で第一報が配信アナウンスされる。
[編集] 契約社
讀賣新聞社、朝日新聞社、毎日新聞社などの新聞社と、全国の民間放送局(全てではない)。契約社には、外信記事、一部の運動記事しか配信されないことになっているが、実はそれぞれの系列のスポーツ紙やテレビ局から共同通信の配信記事内容が漏れ伝わっている。朝日新聞の場合は日刊スポーツから、毎日新聞の場合はスポーツニッポンから、讀賣新聞の場合は報知新聞から、といった具合である。
さらに、共同通信の配信記事をそのまま掲載しながら、契約社である新聞社は自社記事のように「●●日●●●●特派員」と署名を付けるケースが目立つ。時折、共同通信の配信記事に誤りがあった場合、まったく同じ誤りを契約社の記事に見つけることができる。また、その国にいなかったはずの記者の名前が付けられていることさえもある。つまり、契約社の国際記事には(共同)のクレジットは見当たらないが、実質的に日々掲載はなされている。そのため、契約社の経営サイドは共同通信との契約を打ち切りたいが、現場サイドからは契約打ち切りに対して反対の声が常に起こることになる。
しかし、顧客第一主義の姿勢から、共同通信側がそれぞれの契約社に異議申し立てをしたことはない。
[編集] 渡邉恒雄との攻防
1998年、外信記事に限って配信を受けている読売新聞、朝日新聞、毎日新聞が契約料値下げを要求。さらに有力加盟社である産経新聞も出資額の値下げを要求。共同通信側はこれらの要求を拒絶したが、読売新聞らは契約解消や脱退をちらつかせ、両者の対立が深刻化した。この背後で音頭を取っていたのが読売新聞社社長の渡邉恒雄だったと言われる。共同通信社が潰れれば、そこから記事の配信を受けている地方紙も共倒れになり、読売新聞が全国制覇へ向けて一歩進めるというわけである。結局、渡邉を日本新聞協会会長に推戴することで99年に事態が収拾した。また、共同通信と共にこのような動きに猛反発した地方紙も渡邉の推戴に協力したが、地方紙の場合、再販制度撤廃の動きを封じ込めるため、渡邉の政治力を利用しようという思惑があったと考えられている。
余談ではあるが、戦前の「大正力」こと正力松太郎は経営する読売新聞社の地方紙攻撃の手段として、共同の前身である同盟通信社の設立に当初は賛成した。これは通信社に主要ニュースを頼っている地方紙の紙面が同盟一色となれば、中央紙は労せずして差別化を図ることができ読者を取り込める、という企みからであった。さらに蛇足ではあるが「同盟」に合併させられた電通(当時は通信社で戦後は広告代理店になる)の光永社長は電通を買収させる代わりに「勅撰の貴族院議員」にするという約束を政府と取り付けていたという。
[編集] 株式会社共同通信社
株式会社共同通信社(きょうどうつうしんしゃ K.K.Kyodo News)は、社団法人共同通信社の100%出資による総合情報サービス会社。非メディアに情報を販売することを目的に設立された。
出版業務も株式会社から行われていて、かつてFM放送情報誌「FM fan」を出していたことで知られ、現在は月間テレビ情報誌『BSfan』を発行している。その別冊として『Sex and the City』などの海外ドラマを扱ったムック本を出し続けていて、その流れから『もっと知りたい!韓国TVドラマ』を出版したところ、勃興し始めていた韓流ブームに乗って大ヒットを記録。韓流だけを扱ったムック本のさきがけとなった。
[編集] 沿革
- 1972年 設立
[編集] 同社出身の著名人
- 内田健三(元法政大学東海大学教授)
- 浅野健一(同志社大学教授)
- 魚住昭(ジャーナリスト)
- 黒田勝弘(産経新聞ソウル支局長)
- 田中宇(評論家)
- 田英夫(参議院議員)
- 高井有一(芥川賞作家)
- 辺見庸(芥川賞作家)
- 高橋紘(静岡福祉大学教授)