ブエノスアイレス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ブエノス・アイレス (Buenos Aires) は人口は278万人を擁するアルゼンチンの首都、直訳すると「良い空気」の意。ラプラタ川(Río de la Plata Plata=銀 銀の川の意)に面している。対岸はウルグアイ。
目次 |
[編集] この街の概要
南米のパリ"の名で親しまれ、南米の中で最も美しい町の一つとして数えられる。気候は温暖湿潤気候(日本の典型的な気候とほぼ同じ)。
独立当時は小さな町だったが、サルミエント(Sarmiento)による欧州化・文明化政策の実施移行数多くの移民がイタリア・スペインなどから渡来し、中南米の中でも最も欧州的な街になった。かの有名なアルゼンチンタンゴはこの街のボカ地区で発祥。また、サッカーが盛んなことでも有名で、マラドーナが在籍したボカ・ジュニアーズやリバープレートなど名門チームを数多く擁する。
メトロビアスが運営する地下鉄にはA線からE線まで5本の路線があるが、そのうち、B線の車両は日本の営団地下鉄丸ノ内線の500形を、C、D線では名古屋市交通局東山線と名城線の300形、1200形、250形を転用して使っている。
[編集] 歴史
1536年にスペインのメンドーサ (Pedro de Mendoza) により建設されたが、先住民の包囲攻撃とそれに伴う飢餓のために町は1541年放棄された。のち、ガライ(Juan de Garay)の率いる主にクリオーリョよりなるアスンシオンからの植民団により1580年再建された。1776年に市はリオデラプラタ副王領の首府となった。町は当初貿易港として賑わったが、16・17世紀の大部分、スペインの植民地統治者はヨーロッパへの輸出品が全てペルーのリマを経由することを強制しつづけたので市内の貿易業者の不満が高まり、密貿易が盛んになった。また当然このような制度はクリオーリョのスペイン当局への憤懣を鬱積させるもとになった。ナポレオンのスペイン侵攻戦争の後、1810年の5月25日、副王は市民により追放され、自治政府が発足し、1816年にはラプラタ連合の独立が宣言された。
[編集] 文化
[編集] 関連作品
[編集] 空路アクセス
日本(成田・中部・関西)からブエノスアイレスへの直行便がない。 このため米国系や欧州系などの航空会社による乗り継ぎでアクセスすることになる(ヴァリグ・ブラジル航空は経営難により日本から撤退した。また、中南米国籍者は米国を通過する際に通過ビザが必要となるため、米国の空港を経由しないルートを選択することになる場合が多い)。シアトル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ダラス、シカゴ、ニューヨーク、マイアミを経由することが主としており、アメリカン航空、ユナイテッド航空の利用で入国することが出来る。また、複数の航空会社を組み合わせる方法でもフライトが可能で、スターアライアンスメンバーの例でいえばシンガポール航空のロサンゼルス乗り継ぎユナイテッド航空便でブエノスアイレスへ行くことや、日本航空でサンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨークへ行き、ワンワールドに属するアメリカン航空でもブエノスアイレスへ行くことが出来る。ちなみに、2006年現在で日本からブエノスアイレスまで同一航空会社で移動する場合には、以下の航空会社が利用可能である。
- アメリカン航空(主にダラス等で乗り継ぎ)
- ユナイテッド航空(主にシカゴ等で乗り継ぎ)
- デルタ航空(主にアトランタ等で乗り継ぎ)
- コンチネンタル航空(主にニューアーク等で乗り継ぎ)
- エア・カナダ(主にトロント乗り継ぎ)
- ブリティッシュ・エアウェイズ(主にロンドン乗り継ぎ)
- エールフランス(主にパリ乗り継ぎ)
- ルフトハンザ・ドイツ航空(主にフランクフルト乗り継ぎ)
- アリタリア航空(主にローマ乗り継ぎ)
- マレーシア航空(主にクアラルンプール乗り継ぎ)
[編集] 空港
- エセイサ国際空港(EZE)