人吉藩
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人吉藩(ひとよしはん)は、肥後国南部の球磨(くま)地方を領有した藩。藩庁は人吉城(熊本県人吉市)。
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[編集] 略史
当藩の藩主である相良氏は鎌倉時代初頭の建久4年(1193年)この地の地頭に任ぜられた。その後、戦国大名に成長し、江戸時代に入っても領主として存続し明治維新を迎えた、極めて稀な藩の一つである。
天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州侵攻の際、老臣の深水長智は大友氏・島津氏の間に挟まれた小領主の苦衷を秀吉に訴えた。長智の奔走により当主の相良頼房(後の初代藩主・長毎)は領土を安堵された。
慶長元年(1596年)深水宗方の甥・頼蔵と重臣・犬童頼兄との対立が激化した。これを石田三成が仲裁。結果、頼蔵が敗訴し彼の後ろ盾となっていた加藤清正の下に奔り、深水一族は頼兄により討たれた。これにより犬童頼兄は相良清兵衛頼兄と名乗り家老・執政となり相良家の中心的役割を果たしてゆくこととなる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、事件の仲裁に立った三成への恩義から、当初、西軍に付いた。しかし、頼兄は日向国の小領主である秋月種長・高橋元種・伊東祐兵らと共に東軍への寝返りを実行した。その結果、彼らは徳川家康より旧領を安堵され各自立藩した。
人吉藩は薩摩藩とよく似た中世の名残を残した行政機構となっていた。その1つは外城制である。領内には13の外城があり、それぞれに数人の家臣が居住し領地と領民の支配を行った。兵農分離が為されておらず、半農半兵の無給郷士が人口の約1/3を占めていた。また、キリシタン禁制と共に浄土真宗本願寺派禁制を厳守していたことも薩摩藩と同じである。
藩財政は初期には、「長崎買物」と称される商売により潤っていた。長崎買物とは色緞子(いろどんす)・毛氈(もうせん)・天鵞絨(びろうど)など舶来織物を藩が長崎で買い、京都で販売することで利潤を上げるというものである。
また、新田開発に力を注ぎ寛永年間には21,000石もの新田が開発された。また、日本三大急流の一つである球磨川は舟の航行が不可能とされていたが、商人の林正盛が寛文5年(1665年)に改修工事を完成させた。これにより河口の八代までの水路が確保され産物の搬出入が容易になった。
しかし、幕府手伝いや藩邸改修、災害等により次第に悪化していった。藩財政が悪化した江戸時代中期以降、藩主が短命で頻繁に交代したため改革に手を付けることが出来ず、また、藩内の対立(後述)が改革の手を鈍らせていた。
江戸時代後期には苧(お)、椎茸、茶などの栽培を奨励し財源確保に努めたがあまり功を奏しなかったようである。
幕末の文久2年(1862年)には人吉城下は寅助火事と呼ばれる大火に見舞われ、財政は大きな痛手を被った。
明治4年(1871年)廃藩置県により人吉県となった。のち、八代県、白川県を経て熊本県に編入された。 明治17年(1884年)相良家は子爵となり華族に列した。
[編集] 藩内抗争
人吉藩では深水氏と犬童氏の対立に始まり、門葉(相良一族、小衆議派と呼ばれる)と家老(大衆議派)との対立が絶えず、たびたび事件が起こった。古来からの小領主ゆえに門葉が数家あり、また家臣も古くからの存在で、互いの権利主張が当主の権力を小さくしていった。しかし、これほど多数の騒乱が起こった藩は極めて珍しい。一方、同じく古来からの小領主であった大村氏は大村藩の初期段階で、強制的に改革を行い藩主の権力を強化した。それにより藩内を纏めることに成功しているのとは大きく異なっている。
[編集] お下の乱
お下の乱(おしたのらん)は、別名、相良清兵衛事件とも呼ばれる。2代藩主頼寛は寛永17年(1640年)重臣であり次第に権力を増幅していった相良清兵衛頼兄の専横を、幕府に対し訴え裁可を仰いだ。頼兄は江戸へ召還され小田原藩仮預かりとなった。この間に江戸屋敷より国許への使者として神瀬外記が遣わされた。使いの内容は、頼兄の嗣子犬童半兵衛を引き続き藩士として取り立てる、というものであった。しかし、「お下屋敷」と呼ばれる頼兄の屋敷に呼ばれた外記は半兵衛らに殺害された。そして頼兄の一族はお下屋敷に立て籠もり、藩兵がこれを取り囲み戦闘となった。結局、頼兄の一族全員が討ち死に又は自害により死亡した。これがお下の乱と呼ばれる事件である。
頼兄は幕府の裁定により遠流(津軽藩預かり)となり、弘前で明暦元年(1655年)に88歳で客死している。
[編集] 村上一族鏖殺事件
村上一族鏖殺事件(むらかみいちぞくおうさつじけん)とは、お下の乱の僅か4年後の正保2年(1645年)に起きた事件である。300石取りの上士である村上顕武が、一族を招いて先祖供養の法要をおこなっている最中に、顕武の養子である角兵衛とその実兄である柳瀬長左衛門が乱入し一族約70名を惨殺した。直後に角兵衛と長左衛門は自決している。顕武とその妻、角兵衛との間の不仲が原因であると言われているが定かではない。
[編集] 竹鉄砲事件
竹鉄砲事件(たけでっぽうじけん)とは、8代藩主頼央が鉄砲により暗殺された事件である。
発端は7代頼峯の宝暦5年(1755年)に領内を襲った大水害である。藩は当時すでに財政が逼迫していたが、この大水害により藩士の生活は壊滅的な打撃を受けた。 翌宝暦6年(1756年)、藩士救済策として、家老・万江長右衛門らの大衆議派が希望者に対し御手判銀の貸し付けの触れを出した。しかし、門葉ら小衆議派は、その返済方式では実質的に知行の削減となり藩士が一層貧困に喘ぐとして異を唱えた。
宝暦7年(1757年)、藩主・頼峯は、帰国に際して従前どおり門葉(実は弟)の相良頼母(後の頼央)を仮養子にしようとした。頼母は門葉の中心的人物であったため、家老・万江らはこれに反対し、連判状を提出するにいたった。しかし、頼峯は、強硬な反対を押し切って頼母を仮養子として帰国した。 ところが、頼峯を毒殺し頼母の擁立を企てたという遺書を残して藩医が自殺するという事件が起こった。頼峯は吟味のうえ小衆議派を処罰し、御手判銀貸し付けは実行された。
宝暦8年(1758年)、頼峯は江戸参府の途上発病し、江戸到着後死去した。死去により頼母が出府し、8代藩主・頼央となった。 翌宝暦9年(1759年)6月に帰国した頼央は、その2ヶ月後に急死する。相良家の記録では、7月に体調を崩し薩摩瀬の別邸で療養していたが、病状が悪化し死亡したとされている。
しかし、言い伝えによれば、薩摩瀬の別邸に滞在中の7月、鉄砲により狙撃され8月に至り死亡したという。藩は、銃声を子供の竹鉄砲(爆竹)であると誤魔化し、調査を求める訴えを取り上げなかったという。大衆議派と小衆議派が対立する中、小衆議派の中心人物であった藩主の抹殺を謀ったものと言われている。
また、これにより藩主相良家の血統は断絶し、以後約10年間、他家から晃長、頼完、福将、長寛と4人の人物を相次いで継嗣に迎え入れるという不安定な家督相続をし、なんとかお家断絶の危機を切り抜けていった。
[編集] 茸山騒動
茸山騒動(なばやまそうどう)は天保12年(1841年)に起こった百姓一揆である。14代藩主頼之は田代政典を家老に登用し藩政改革を推進した。その一環として豊後国より椎茸栽培を導入し座(特権商人制度)を設けた。作物への課税や椎茸山への入山禁止などに不満を抱いた藩内一円の農民約1万人が、特権商人宅などを打ち壊した。結果、政典は切腹し、座が廃止されることで収拾した。また、一揆を煽動したとして門葉の相良左仲も切腹となった。左仲切腹の背景には、次期藩主長福の擁立をめぐって、擁立支持の家老派と擁立反対の門葉派との対立があったようである。
[編集] 丑歳騒動
丑歳騒動(うしのとしそうどう)は幕末の慶応元年(1865年)に起こった騒動である。西洋式軍隊の導入の必要性を感じた藩は、松本了一郎を起用し軍制改革に乗り出した。了一郎の一派は佐幕であり洋式派と呼ばれた。一方、江戸初期からの伝統である山鹿流軍制を守ろうとする家老らは勤王派であった。こうした軍制と政治の対立があったが、洋式派が優勢となりオランダ式軍制への改革が推進された。これに反発した勤王派は了一郎らを襲撃し洋式派14人を上意討ちにし、逆に勤王派が主導権を掌握した。その後、山鹿流、オランダ式とも廃止され薩摩藩よりイギリス式軍制が導入された。一連の騒動から藩内の改革が立ち後れ、明治維新では新政府軍に参加したものの目立った活躍はなかった。
[編集] 歴代藩主
- 相良(さがら)家
外様 22,000石
- 頼房(よりふさ)〔従五位下、左兵衛佐〕
- 頼寛(よりひろ)〔従五位下、壱岐守〕
- 頼喬(よりたか)〔従五位下、遠江守〕
- 頼福(よりとみ)〔従五位下、志摩守〕
- 長興(ながおき)〔従五位下、近江守〕
- 長在(ながあり)〔従五位下、遠江守〕
- 頼峯(よりみね)〔従五位下、志摩守〕
- 頼央(よりひさ)〔従五位下、遠江守〕
- (晃長(あきなが)〔早世のため官位官職なし 準藩主〕)
- 頼完(よりさだ)〔従五位下、近江守〕
- 福将(とみもち)〔従五位下、越前守〕
- 長寛(ながひろ)〔従五位下、壱岐守〕
- 頼徳(よりのり)〔従五位下、志摩守〕
- 頼之(よりゆき)〔従五位下、壱岐守〕
- 長福(ながとみ)〔従五位下、志摩守〕
- 頼基(よりもと)〔従五位下、遠江守〕