相良福将
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相良 福将(さがら とみもち)は、肥後人吉藩の第10代藩主。
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 寛延3年6月13日(1750年7月16日) | |||
死没 | 明和6年1月12日(1769年2月18日) | |||
別名 | 源次郎(幼名) | |||
戒名 | 泰雲院殿玄嶽道樹 | |||
墓所 | 熊本県人吉市の願成寺 | |||
官位 | 従五位下、越前守 | |||
藩 | 肥後人吉藩主 | |||
氏族 | 遠山氏→相良氏 | |||
父母 | 父:遠山友明 養父:相良頼完 |
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兄弟 | 兄:遠山友随 | |||
妻 | 正室:前田氏 | |||
子 | 養子:相良長寛 |
寛延3年(1750年)6月13日、美濃苗木藩主・遠山友明の三男として生まれる。明和4年(1767年)に第9代藩主・相良頼完が死去したため、その養子として家督を継ぎ、藩主となる。ところが同年1月、米良山騒動が起こって182人が処罰されるという事件が起きた。
藩政においては洪水や旱魃が相次ぎ、2万石の収入が1万4000石程度まで激減したと言われている。ただし学問には熱心で、後に藩校が創設される基礎を築いた。明和6年(1769年)1月12日に死去。享年20。
後を養子の相良長寛が継いだ。