相良頼央
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 元文2年7月3日(1737年7月30日) | |||
死没 | 宝暦9年8月13日(1759年10月3日) | |||
別名 | 頼母(幼名)、滋氏(初名) | |||
戒名 | 祥麟院殿華岳仁封 | |||
墓所 | 熊本県人吉市の願成寺 | |||
官位 | 従五位下、遠江守 | |||
藩 | 肥後人吉藩主 | |||
氏族 | 相良氏 | |||
父母 | 父:相良長在、養父:相良頼峯 | |||
妻 | 正室:なし | |||
子 | 養子:相良晃長 |
元文2年(1737年)7月3日(異説として享保20年(1735年))、第6代藩主・相良長在の次男として生まれる。母は側室。長在の死去の折に幕府に出生が届けられていた男子は、兄・頼峯のみであった。そのため公的には、長在の長女為姫と一門・相良頼直の子とされた。公的な系譜の「寛政重修諸家譜」には頼峯の甥、家中の資料「探源記」、「相良家譜」には頼峯の実弟と記載されている。
宝暦8年(1758年)に頼峯が死去したため、その養子となって後を継いで藩主となる。宝暦9年(1759年)6月から人吉に入って藩政を執るが、閏7月15日に薩摩瀬屋敷(現熊本県人吉市下薩摩瀬町近辺に存在)観欄亭において休養していたところ、何者かに鉄砲で撃たれて負傷し、その傷がもとで1ヵ月後の8月13日(異説として8月11日)に死去した。享年23。ただし相良家の記録によれば、病死したとされている。
この暗殺事件は竹鉄砲事件と言われる。事件後、人吉藩の一部では銃声が聞こえたことにより、暗殺であるとして調査するように上層部に訴えたが、上層部は銃声は子供の遊戯による竹鉄砲(爆竹)であるものとして処理してしまった。なお、頼央を暗殺した犯人は、前藩主時代から対立していた相良家の門葉(分家の一族)であるとされている。
家督は秋月家から相良晃長を養子として迎えて跡を継がせたため人吉藩の取りつぶしは避けられた物の、相良家の血統は断絶した。