相良頼基
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
相良 頼基(さがら よりもと)は、肥後人吉藩の第15代(最後)の藩主。
|
||||
時代 | 江戸時代末期(幕末)、明治時代 | |||
生誕 | 天保12年5月12日(1841年6月30日) | |||
死没 | 明治18年(1885年)6月30日 | |||
別名 | 元三郎(幼名) | |||
戒名 | 天徳院殿義運良照 | |||
墓所 | 熊本県人吉市の願成寺 | |||
官位 | 従五位下、越前守、遠江守 | |||
藩 | 肥後人吉藩主 | |||
氏族 | 相良氏 | |||
父母 | 父:相良頼之、母:慶寿院 養父:相良長福 |
|||
兄弟 | 兄:相良長福、準之助、池田政詮(のち章政) 弟:貞四郎、妹:於栄、於保、於英 |
|||
妻 | 正室:徳大寺公純の娘・中姫 | |||
子 | 養子:相良頼紹 7男2女(元三郎、豊寿丸、虎若、 相良頼綱、相良基孝、島津久賢、 相良基式、於寿々、弘子(京極高備室)) |
天保12年(1841年)5月12日、第13代藩主・相良頼之の子として生まれる。安政2年(1855年)に兄で第14代藩主の相良長福が死去した。このとき、長福には実子に相良頼紹がいたが、幼少のため、弟の頼基がその養子となって家督を継いだ。
この頃、人吉藩では西洋式軍隊の導入の必要性を感じ、松本了一郎を起用してオランダ式の軍制改革に乗り出した。了一郎の一派は佐幕であり洋式派と呼ばれた。一方、江戸時代初期からの伝統である山鹿流軍制を守ろうとする家老・新宮行蔵らは勤王派であった。こうした軍制と政治の対立があったが、文久2年(1862年)2月7日夜に人吉藩の武器庫が焼失したことを契機に、洋式派は古きを復活させるより、新しきを目指すべきとして頼基に提言して認められ、洋式派が優勢となり、薩摩藩から5000両を借用するなどして、オランダ式軍制への改革が推進された。ところが慶応元年(1865年)、松本が頼基を廃して、本来の正統な藩主である頼紹を擁立しようとする陰謀があるという噂が流れ出す。この真偽は定かではないが、これに反発した勤王派は9月25日に了一郎らを襲撃し、洋式派14人を上意討ちにし、逆に勤王派が主導権を掌握した。その後、山鹿流、オランダ式とも廃止され薩摩藩よりイギリス式軍制が導入された。一連の騒動から藩内の改革が立ち後れることとなり、慶応4年(1868年)の戊辰戦争でも、薩摩藩と協力して会津藩攻撃に加わる程度にとどまった。
明治2年(1869年)6月22日、版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官された。明治18年(1885年)6月30日に死去。享年45。