纏向遺跡
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纒向遺跡(まきむくいせき)奈良県桜井市、三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期~古墳時代前期の遺跡群を指す。遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2km・南北約1.5kmに及び、面積は300万m2に達する。
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[編集] 発見
現在の名称で呼ばれるまでは、太田遺跡その他、小規模な遺跡群の一つとして研究者には認識され、特に注目をあつめていなかった。しかし、1971年に行われた県営住宅、小学校建設の為の橿原考古学研究所がおこなった事前調査により、幅5m、深さ1m、総延長200m以上の運河状の構造物が発見された事により、注目を集めることになる。その後もさまざまな出土品が広範囲にわたって確認された。1977年の第15次調査以降、調査主体が橿原考古学研究所から桜井市教育委員会へと移り、現在も調査を継続している。
[編集] 主な遺構
- 矢板で護岸した幅5m、深さ1m、総延長200m以上にわたる巨大水路の発見。
- 底からは湧水がみられ、内部は大きく分けて3層に分かれている。径約3m・深さ約1.5mの一方が突出する不整形な円の土抗が約150基発見された。
- 掘立柱建物跡と、これに附随する建物跡。
- 弧文板・土塁と柵列を伴ったV字形の区画溝
- 導水施設跡
- 遺跡内に点在する古墳。(大和古墳群)
- 現在は確認できない埋没古墳が多数ある可能性あり。
[編集] 主な遺物
- 朱色に塗った鶏形木製品
- 吉備地方にルーツを持つとされる直線と曲線を組合わせて文様を施した弧文円板(こもねんばん)と呼ばれる木の埴輪。
- 絹製の巾着袋
- 韓式系土器
- ミニチュアの舟
- 木製鏃
- 搬入土器
- 石見型楯形(いわみがたたてがた)木製品
- 日本全国からの物品が出てくるが、中でも東海地方の物が多く出土してくる。
[編集] 纒向遺跡の主な古墳
[編集] 評価
[編集] 邪馬台国畿内説の最有力候補地
関東系 | : | 5% | |
---|---|---|---|
東海系 | : | 49% | |
近江系 | : | 5% | |
北陸・山陰系 | : | 17% | |
河内系 | : | 10% | |
紀伊系 | : | 1% | |
吉備系 | : | 7% | |
播磨系 | : | 3% | |
西部瀬戸内海系 | : | 3% |
- 弥生時代末期から古墳時代前期にかけてであり、邪馬台国の時期と重なる。
- 広大な面積と当時としては最大級の集落跡である。
- 出土土器全体の15%は、駿河・尾張・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められ、製作地域は、南関東から九州北部までの広域に拡がっており、人々の交流センター的な役割を果たしていたことが窺える。このことは当時の王権の本拠地が、この纏向地域にあったと考えられる。
- 邪馬台国の女王卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳がある。
- 以上の点から邪馬台国畿内説の有力候補地ともくされている。
[編集] ヤマト政権発祥の地
- 『記紀』では、垂仁天皇・景行天皇の磯城瑞籬(しきみずがき)宮、纏向珠城(まきむくたまき)宮、纏向日代(まきむくひしろ)宮が存在した伝えられ、さらに雄略の長谷(泊瀬)朝倉宮、欽明の師木(磯城)島大宮(金刺宮)なども存在した。
- 『万葉集』にも纒向の地名がみられる歌が数多く詠まれている。
[編集] 特異な遺跡
- 纒向遺跡は大集落といわれながらも、人の住む集落跡が発見されていない。現在発見されているのは、祭祀用と考えられる建物と土抗、そして、弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)などである。遺跡の性格としては居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まったり、箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための聖地と考える学者も多い。
[編集] 参考文献
- 日本の古代史 5 前方後円墳の世紀 中央公論社