ドイツ人追放
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第二次世界大戦後のドイツ人追放(だいにじせかいたいせんごのドイツじんついほう)とは、民族的国民国家群をドイツ以東のヨーロッパに建設する試みとして、第二次世界大戦後ソ連領となった土地と、ソ連に占領されたドイツ領からの民族ドイツ人の強制移住を指す。
この措置はポツダム会談によって決定され、「秩序ある人道的な方法」で行われることとされたが、実際はそれ以前から多くのドイツ人がソ連軍の進撃から逃れるために西へと避難を開始していた。大きく国境線を移動することになったソ連やポーランドなどでは退去していくドイツ人に対し食料などを提供することが当局によって禁止された。その上、戦後の混乱によって発生した飢餓、病気、民兵による乱暴、復讐を目的とした殺人によって多くの人々が命を落とした。冬の寒さがそれに追い討ちを掛けた。このときの犠牲者数は500,000人から2,000,000人とされている。死因の内訳はいまだ不明である。
連合国の資料が公開されたのは1990年代に入ってからである。それによるとドイツ系の移住者(放逐者と難民)の総数は16,500,000人に及び、戦後の民族移動としては最大のものである。また、他に数百万人のポーランド人やウクライナ人も戦後に移住を強制された。これらはみな西側連合国とソ連が行ったことである。
ドイツ人(その中には戦争中にドイツ国籍を得た者もいる)に関して言えば、彼らは新しくポーランド領に編入された地域、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア(主にヴォイヴォディナ地方)、のちにロシアのカリーニングラード州となった東プロイセン、リトアニアその他の東ヨーロッパ諸国から追放された。これらの東ヨーロッパ諸国もまた戦後に国境線を移動させられた。ポーランドのように自国政府の意向を無視して強制的に大きく国土を移されたケースもある。
終戦前から多くのドイツ人は進撃してくるソ連赤軍に対する恐怖心から避難を開始していた。逃げ遅れた者の中には戦争中に犯した非道行為によって処罰されたものもいる。ほとんどはドイツ人であるがゆえに迫害された。
目次 |
[編集] ポツダム協定の第12項(1945年8月1日)
- ドイツ人住民の秩序ある移送
- これら3カ国(訳注 - アメリカ、イギリス、ソヴィエト連邦)の政府は、諸般の情勢に鑑み、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリーに残留するドイツ人住民やその社会集団のドイツへの移送が行われることを承認する。これら政府は、全ての移送措置が秩序ある人道的な方法で行われるべきことに合意する。
[編集] 強制移住の理由
以下に示すようなさまざまな理由が挙げられている。
- 第二次世界大戦の期間における民族ドイツ人の行為(ナチス・ドイツ占領地域からのポーランド人やチェコ人追放を含む)に対する懲罰措置。同時に民族的に等質な国民国家を建設することにより、戦争に先駆けて発生したような民族対立の芽を摘み取る。また戦中のドイツ人は東方植民地計画 (Generalplan Ost) に則ってポーランド人の財産を奪ったうえで総督府 (Generalgouvernement) 等へ追放し、その犠牲の上に特権的な生活を享受した。ワルシャワは総督府内にあったが、そこにおける各民族の1日当たり平均摂取カロリーはドイツ人1人あたり2,613kcalなのに対し、ポーランド人に与えられたのは669kcal、ゲットーのユダヤ人に至っては253kcalと推定されており、食物の秘密調達なくして生命維持は不可能であった。ただし無許可の食料調達が発覚すれば現場で即座に銃殺された。総督府ではさらにポーランド人を家から追いたて、家族を引き裂き、子供を誘拐し、強制労働を課し、微罪を理由に処刑した。ポーランドの人口は1939年の42,800,000人から1945年には34,600,000人にまで激減した。3,700,000人が故意に殺害されて2,300,000人が迫害が原因で死亡するか行方不明になったと判明するのは後のことである。
- ポツダム会談の参加国は、将来において民族間の暴力を避けるには民族ドイツ人の強制移住しかないと考えていた。ウィンストン・チャーチルは1944年に庶民院でこう述べた。「強制移住は、今まで考慮しうるもののうちでは最良の措置であり永続的なものである。常に繰り返される不幸を引き起こす人々の混住状況はもはや存在しなくなる…完全な一掃が行われるのである。この移送に対して不安はない。これはむしろ現代の状況において可能なことなのである…」。このチャーチルの見解の立場をとると、強制移住はその目的を達したと考えられる。1945年に新たに設定された国境線は確固たるものであり、民族対立は殆どなくなった。しかし民族関係の安定は堅い鉄のカーテンによって説明されることでもある。なお、チャーチルは1946年の有名な「鉄のカーテン」演説でドイツ人強制移住を非難している。[1]
- ドイツ国外におけるドイツ人少数民族組織は1939年のナチス・ドイツによるチェコスロヴァキア解体やポーランド侵攻を支援した。ポーランドとチェコスロヴァキアでは自衛団 (Selbstschutz) その他のドイツ民族主義組織が現地のドイツ系住民によって編成され、破壊活動を行い、タンネンベルク作戦に代表されるポーランド人虐殺など様々な敵対的行為に加担した。戦争の終盤にはヴェアヴォルフWerwolf(人狼部隊)、ヤークトフェアベンデ Jagdverbände(狩猟部隊)、ブントシューBundschuh(紐靴部隊)といった民間人の準軍事部隊が組織され、連合軍占領地域でゲリラ活動を行い、ポーランド人や反ナチス的ドイツ人など多数の人々を殺害した。1945年3月23日に宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスは「ヴェアヴォルフ演説」と呼ばれた演説を行い、全てのドイツ人は死ぬまで戦えと訴えた。そのためドイツ人少数民族全体がナチス・ドイツから解放されたばかりの国家で治安維持に対する脅威とされた。1939年当時に遡るとドイツ系ポーランド人の成人のうち10人に1人は自衛団 (Selbstschutz) の構成員であり、ドイツ系ポーランド人総数のうち25%はナチス・ドイツによって支援された何らかの反ポーランド的組織に属していて、ポーランド侵攻とその後の占領に加担した。彼らはタンネンベルク作戦、AB行動、ユダヤ人ゲットー建設などの迫害行為を始めとした様々な犯罪に加わった。
- この強制移住の目的は、民族ドイツ人の東方への伸張を阻止することである。ドイツの民族主義者は過去において常に、他国におけるドイツ系少数民族の存在をその国に対する領土要求の根拠としてきた。アドルフ・ヒトラーはこれを侵略戦争の口実に利用した。他国の領土からドイツ人を排除することは将来の潜在的な問題を排除することと考えられる。
- 強制移住は歴史的正当性のある行為である。例えばズデーテンの民族ドイツ人 (Sudetendeutsche) はチェコスロヴァキア解体に加担した。チェコの世論はドイツ人のこの行為を裏切りと捉えた。
- ドイツ領やドイツ支配地域がソ連軍に占領されるよりはるか前に、ソ連によってポーランド東部の約2,000,000人のポーランド人がシベリアのグラグ(強制労働収容所)に強制移送された。それに加えて800,000人とされるワルシャワ住民がドイツによって特殊な労働収容所へ送られていた。戦後はこういった人々が帰郷したが、戦争で破壊された祖国で住居を必要としていた。
- ソ連は1939年のポーランド侵攻でドイツと共に分割・獲得した旧ポーランド領を自国に再編入し、その結果ポーランドは戦前の領土の43%を失うこととなった。グダニスク(ダンチヒ)を始めとしたいくつかの都市はドイツ系少数民族と戦略的に危険な国境線を排除する目的でポーランドに割譲された。さらにポーランドには、ヴィルノ(リトアニア語名ヴィリニュス)とルヴフ(ウクライナ語名リヴィフ)を失った対価としてヴロツワフ(ドイツ語名ブレスラウ)とシュチェチン(ドイツ語名シュテッティン)が与えられた。ソ連に併合された地域の代償としてポーランドに新たに与えられた領土についてはスターリン単独の決定でなく、イギリスとアメリカによる暗黙の了解があったものと解釈できる。
- ヴァルテラント帝国大管区 (Reichsgau Wartheland) のように、戦争中はドイツ政府によって広範囲でいわゆる民族浄化が行われていた。そのため戦後に強制移住された民族ドイツ人はほとんど同情されなかった。
[編集] 結果
12,400,000人(あるいは16,500,000人とも言われる)の民族ドイツ人が移住を強制された。移動の途中で命を落とした人々の数については見解が分かれている。ドイツ連邦統計局の1958年の発表では、2,100,000人以上の民族ドイツ人が強制移住によって死亡したとされる。1965年に発表された統計でもこの2,100,000人という死亡者数が確認されている (Gesamterhebung zur Klärung des Schicksals der deutschen Bevölkerung in den Vertreibungsgebieten, Bd. 1-3, München 1965)。ゲルハルト・ライヒリンク (Gerhard Reichling) の調査では2,020,000人の民族ドイツ人がソ連によって強制移住され奴隷労働に従事した結果死亡したとしている (Die deutschen Vertriebenen in Zahlen)。リューディガー・オーヴァーマンス (Rüdiger Overmans) は1,100,000人が死亡したとしている。しかしこの数字とこの数字を得るための方法については、フリッツ・ペーター・ハーベル (Fritz Peter Habel) やアルフレッド・デ・ザヤス (Alfred-Maurice de Zayas) から異議が唱えられている。ハーベルやデ・ザヤスは死亡者数は2,000,000人を超えると主張している。チェコやポーランドの歴史家はより低い数字を挙げている。これは前線で戦闘中に死亡した兵士の数が除外されたためとされている。
ソ連当局の命令による「死の行進」と、戦後の混乱状況で発生した山賊行為、飢餓、伝染病によって多数の人々が亡くなった。また、強制移住措置を待つ人々を待機させるための強制収容所での過酷な環境で死亡した者も多い。ソ連内務人民委員部 (NKVD) によって1945年2月から運営され、3月に共産主義ポーランドの内務省保安部Służba Bezpieczeństwaに引き渡されて、3月15日から積極的な親ソ派だったユダヤ系ポーランド人のサロモン・モレルSalomon Morelが所長を務めたズゴダ強制労働収容所Zgoda labour campでは、収容所が閉鎖された1945年11月までの9ヶ月の間に1855人の民族ドイツ人やポーランド人反共産主義者が死亡した。飢餓と劣悪な衛生状態から発生したチフスが主な原因である。1989年にポーランドで共産主義政権が倒れると新生ポーランドの検察はこれを犯罪として内偵調査を開始したが、それを察知したモレルは1992年にイスラエルに逃亡した。ポーランドにはこの類の犯罪について時効を設けていない。ポーランド政府はイスラエルに対しモレルの身柄送還を求めているが、イスラエル政府はこれを拒否し続けている。ポーランド国家記銘院(Instytut Pamięci Narodowej, 略称IPN)も歴史的観点からこの事件の調査をしている。モレル本人は無実を訴え、ポーランドの追及は「反ユダヤ主義の謀略」なのだと主張している。
1986年に発表された調査 (Die deutschen Vertriebenen in Zahlen. Gerhard Reichling. 1986 ISBN 3-88557-046-7) によると、民族ドイツ人の追放は次の通りである:
- 1945年以前のドイツ東部から7,122,000人
- グダニスク(ダンチヒ)から279,000人
- ポーランドから661,000人
- チェコスロヴァキアから2,911,000人
- バルト三国から165,000人
- ソ連から90,000人
- ハンガリーから199,000人
- ルーマニアから228,000人
- ユーゴスラヴィアから271,000人
追放された民族ドイツ人の総数は11,926,000人である。1950年には人口の自然増加によって12,400,000人になった。共産主義化した国家の全ての市民を対象とした国有化政策に沿って、ドイツやドイツ人の所有していた財産は没収され、新しい移住者に配分された。
ポツダム協定では、ドイツにおけるアメリカ、イギリス、フランス、イギリスの占領地に等しい数の放逐ドイツ人が配分されることになっていた。実際はソ連占領地域であるいわゆる東ドイツに移住した人の数は、西ドイツに移住した人の数の2倍であった。東ドイツに移住した人々のうち多くはその後アメリカ、カナダ、オーストラリアに渡って行った。
ドイツ人追放は必ずしも無作為に行われたわけではなかった。チェコスロヴァキアではズデーテン・ドイツ人Sudetendeutscheのうち多くの熟練労働者が残ってチェコ人のために働かされることとなった。グルニ・シロンスクGórny Śląsk(オーバーシュレジェン)のオポーレ(オッペルン)地方では、ドイツ人炭鉱夫とその家族はポーランドに残ることを特別に許可された。しかしドイツ語はその後40年間公用語としての使用を禁止された。それでもこの地方の民族ドイツ人の伝統やドイツ語方言は人目につかずに継承され、1990年代に入って徐々に公に認識されるようになった。
[編集] 追放ドイツ人の概要
1939年から1950年までに追放された民族ドイツ人 |
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内訳 | ドイツ | 東ヨーロッパ | 計 |
1939年時点の人口 | 9,500,000 | 7,100,000 | 16,600,000 |
戦中に疎開してきた者の数 | 500,000 | 0 | 500,000 |
1939年から1950までの自然増加数 | 600,000 | 400,000 | 1,000,000 |
1939年から1945年までの戦死者数 | 900,000 | 550,000 | 1,450,000 |
民間人の死者数 | 800,000 | 500,000 | 1,300,000 |
東ヨーロッパに残っていた人々の数 | 1,450,000 | 1,500,000 | 2,950,000 |
1950年時点での追放ドイツ人の累計 | 7,450,000 | 4,950,000 | 12,400,000 |
注:
- ドイツ - ポーランドとソ連に併合された旧ドイツ東部地域。
- 東ヨーロッパ - チェコスロヴァキア、ポーランド、グダニスク(ダンチヒ)、バルト三国、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラヴィア。ソ連は含まず。
- 1939年時点の人口 - ドイツ人と登録された多言語話者を含む。
- 戦中に疎開してきた者の数 - 戦時下のドイツ西部からの疎開者。
- 1939年から1945年までの戦死者数 - リューディガー・オーヴァーマンス (Rüdiger Overmans) による調査ではさらに360,000人多く、その分民間人の死者数は少なくなる。
- 民間人の死者数 - 主に1945年の戦闘で亡くなった人々。さらに強制労働のためにソ連に連行されて死亡した270,000人を含む。上の表ではゲルハルト・ライヒリンク (Gerhard Reichling) とリューディガー・オーヴァーマンス (Rüdiger Overmans) の再調査を反映。1958年の西ドイツ政府発表の推計では2,100,000人。
- 東ヨーロッパに残っていた人々の数 - 主に多言語話者。ルーマニアの民族ドイツ人を除く。ゲルハルト・ライヒリンク (Gerhard Reichling) の調査ではこれより230,000人多く、その分民間人の死者数が少なくなる。
参考文献
- ゲルハルト・ライヒリンク (Gerhard Reichling)、Die deutschen Vertriebenen in Zahlen. Bonn 1986 ISBN 3-88557-046-7
- リューディガー・オーヴァーマンス (Rüdiger Overmans)、Deutsche militärische Verluste im Zweiten Weltkrieg. Oldenbourg 2000. ISBN 3-486-56531-1
- フリッツ・ペーター・ハーベル (Fritz Peter Habel)、Dokumente zur Sudetenfrage Langen Müller. Munich 2003. ISBN 3-7844-2691-3
- アルフレッド・デ・ザヤス (Alfred-Maurice de Zayas)、Die Nemesis von Potsdam Herbig. Munich 2005. ISBN 3-7766-2454-X.
[編集] 歴史的進展
[編集] ドイツ
第二次世界大戦の後、オーデル・ナイセ線より東の地域からの多くの放逐ドイツ人(ドイツ語Heimatvertriebene)は西ドイツと東ドイツの両方に避難した。一部は政治活動を活発に行い、右翼組織に属した。多くはどの政治組織にも所属しなかったが、彼らの言う「故郷」への法的権利を持ち続けた。大多数の人々はいつかこの権利を行使することを願いながら戦後を生きた。半世紀前に署名された書類で放逐ドイツ人の複数の組織は、現在のポーランドに定住を強いられた人々の窮状を訴えている。放逐者連盟Bund der Vertriebenenは他国から今日のドイツに避難した民族ドイツ人からなる団体の一つである。自主的にドイツに移住して故郷に戻れなくなった人々もしばしば強制的に移住させられた人々と同様に扱われる。追放者連盟Bund der Vertriebenen(BdV - 故郷放逐者同盟とも訳される)会長のエーリカ・シュタインバッハ (Erika Steinbach) のように、ドイツが占領していた地域に移住したドイツ人の両親から占領中に生まれた人々も同じく放逐ドイツ人と看做される場合がある。
[編集] ポーランド
1991年以降のポーランド共和国とドイツ連邦共和国の関係は良好だが、第二次世界大戦、戦後の追放、ポーランド国内のドイツ系少数民族に対する扱い、ポーランド西部のドイツの文化遺産に対する扱いを巡って議論が残る。
ポーランド人の中には、ドイツ人は自らを戦争の加害者というよりは被害者と見ているという批判をする者もいる。一方、追放されたドイツ人の中には、戦争と戦後の出来事に対するポーランドの公式見解は共産主義と民族主義が一体となった集産主義的なもので、ドイツ人やポーランド人各個人の苦難に焦点を当てておらず、それぞれの民族的背景のみを強調していると批判する者がいる。
後者の批判については、1939年以前のポーランドに住んでいたドイツ系少数民族によるナチス・ドイツへの広範な協力や支援と、戦中にはドイツ当局によってポーランド人が劣等民族と分類され過酷な扱いを受けていた間ドイツ人は特権的な地位を享受していた事実を無視するものだと批判的に捉えられている。
また、ドイツ人は皆ヒトラーとその世界観や政策を支持したではないかという批判もある[2]。しかし一方、当時のドイツの有権者のうちナチ党が政権に就くことを支持したのはたった32%だけだったのであり、ドレスデン空襲の犠牲者にもユダヤ人家族をかくまったドイツ人がいたし、終戦時にはドイツ人もまた栄養失調に苦しんだのであるという声もある。
2005年11月に「デア・シュピーゲル」誌はアレンスバッハ研究所 (Allensbach Institut) が行った世論調査を発表した。これによるとポーランド人のうち61%は、ドイツ政府が戦前にドイツ領だった地域を取り戻そうとしているかあるいはその補償を求めてくるのではないかと考えており、ポーランド人のうち41%は追放されたドイツ人の各団体の目的は失った個人財産の返還あるいはその補償にあるのではないかと危惧している[3][4]。また、追放されたドイツ人の子孫がポーランドとの経済力の差に乗じて、1945年に共産主義ポーランド政府によって没収された不動産を金の力で買い戻そうとし、これによって西ヨーロッパに比べて割安だったポーランドの不動産価格が暴騰してしまうのではないかと心配している。そのためポーランドでは現在、外国人による国内不動産購入に関して制限措置を設けていて、これはドイツ人にも適用されている。この制限措置はバルト海にあるフィンランド自治領のオーランド諸島と同様のものである。ポーランドの場合、欧州連合 (EU) に加盟してから12年後、すなわち2016年5月1日に制限措置が廃止されることになっている。
追放されたドイツ人の団体で最大で約200万人の会員を抱える「追放者連盟」 (Bund der Vertriebenen) は、迫害、併合、住民移送などの戦後の追放の悲劇を繰り返さないことを公式な方針としている。同連盟の会員のほとんどは1945年に行われた領土変更を認ており、旧ドイツ東部だった地域に住むポーランド人を欧州連合における友人であり隣人であると看做している。
放逐ドイツ人の団体は第二次世界大戦によって受けたというドイツ人の苦難を記念する「反国外追放センター」Zentrum gegen Vertreibungenを建設する計画を持っている。それに応じてポーランドの政治家や活動家の中には「ポーランド民族殉難センター」(あるいは「ポーランド民族受難記念センター」)を建設して、戦争中にナチス・ドイツによるポーランド人に対する組織的な抑圧を記録し、ドイツの人々に向けて彼らの隣人に対してドイツの国家と体制が行った残虐行為の真実を教育すべきだと主張する者もいる。しかしドイツの政治家はポーランド民族殉難センターの建設案を非難し拒んでいる[5]。
ポーランド国内に残っているドイツ系住民は2002年の国勢調査では152,897人と判明しているが、彼らには少数民族としての一定の権利が与えられており、比例代表制の国政選挙でも最低得票率5%制限条項の対象外となる優遇措置が採られている。また、ポーランドの少数民族関連法によりオポーレ県などにあるドイツ系少数民族が居住する各郡では第二言語としてドイツ語の公用語としての使用も許されている。
[編集] チェコとスロヴァキア
チェコとドイツの関係については、1997年に交わされたチェコ・ドイツ宣言によって事実上解決している。この宣言の原則は、両国は過去に起因する政治的・法的問題に対する取り組みを妨げないということである。
しかしズデーテン・ドイツ人とそのその子孫たちは戦後に没収された財産の返還を求めており、幾度か返還要求が何度かチェコの裁判所に提訴されている。没収された不動産にはすでに新しい住民がおり、その中にはもう50年以上もそこに暮らしている者もいるので、所有権を戦前の状態へ戻そうという試みは彼らに不安を与えている。この問題はチェコの政界でもしばしば取り上げられている。ポーランドと同様、チェコ共和国でも外国人の不動産購入に対しては制限措置が採られている。2005年11月にアレンスバッハ研究所 (Allensbach Institut) が行った世論調査によると、38%のチェコ人は、ドイツ政府が戦前にドイツ領だった地域を取り戻そうとしているかあるいはその補償を求めてくるのではないかと考えており、39%は追放されたドイツ人の各団体の目的は失った個人財産の返還あるいはその補償にあると危惧している。
チェコに残っているドイツ系少数民族は法的には一定の民族的権利が与えられているが、政府や自治体の手続きにおいてはドイツ語の使用は事実上不可能である。ボヘミア地方の西部や北部にドイツ系住民が集中しているが、ドイツ語の教育制度は存在していない。チェコ当局はその少数民族関連法で独特の障害を設けている。法解釈上は、少数民族の人口がその少数民族が居住する地方自治体の全人口の10%を超える場合にはチェコ語に加えてその少数民族の言語を使用した標識を立てることができるが、そのためにはその少数民族の成人人口の40%以上がそういった標識を立てる請願書に署名しなければならない。2001年の国勢調査によると、13の地方自治体で人口の10%以上がドイツ系住民となっている。
放逐ドイツ人の各団体代表者の多くが、昔ドイツ語が使われていた地域すべてでチェコ語とドイツ語が併記された標識を立てることはそういった地域の言語と文化の歴史的遺産を示すことになるとして支持している。
2005年には、イリ・パロウベク (Jiri Paroubek) 首相が反ナチス的だったズデーテン・ドイツ人の活動を宣伝し公式に認める議案を提出することを発表した。この動きはズデーテン・ドイツ人とドイツ系少数民族に歓迎されたが、一方でこの議案はチェコスロヴァキア国家のために積極的に戦った反ナチス活動にのみ適用され、反ナチス活動全てを対象としていないという批判も浴びた。また、ドイツ系少数民族は戦後酷使されたことに対する金銭的補償を求めている。
なお、ドイツ人、ハンガリー人、売国奴、その他戦前のチェコスロヴァキア国家に敵対した者の財産を没収することなどを規定したベネシュ布告 (Benešovy dekrety) の見直しは現在も全く行われていない。チェコの政治家や世論の大半はベネシュ布告の一切の改訂を拒否している。
スロヴァキアの場合はチェコの場合と異なっている。スロヴァキアでは民族ドイツ人の数はチェコよりはるかに少なく、ソ連軍がスロヴァキアを通過して西へ進撃してくるとほとんど全てのドイツ系住民は当時のドイツ国内へ避難してしまった。戦後ごく少数のドイツ系住民がドイツから戻ってきたが、チェコのドイツ人が追放されたとき一緒に追放されてしまった。
[編集] ハンガリー
1944年12月22日にソ連軍総司令官によるドイツ人追放命令が下ると、ハンガリーでもドイツ系少数民族への迫害が始まった。ドイツ系住民の5%となる約20,000人は国民同盟 (Volksbund) によってハンガリーから立ち退いてオーストリアに疎開していたが、その多くが翌年の春になるとハンガリーに戻ってきた。1945年1月には32,000人のドイツ系住民がソ連軍によって集められ、奴隷労働のためソ連国内に送られた。その多くは現地の厳しい生活条件や虐待によって命を落とした。1945年12月29日ハンガリー新政府は、1941年の国勢調査で自らをドイツ系と申告した全ての者や、国民同盟 (Volksbund) やナチス親衛隊その他のドイツ武装組織に属していた全ての者を追放する命令を下した。この布告によって大規模な追放が開始された。ドイツ人を護送する最初の列車がブダエルシュ(Budaörs、ドイツ語Wudersch)を出たのが1946年1月19日で、これには5,788人が乗っていた。ドイツ語を話すハンガリー市民のうち185,000人から200,000人がその権利と財産を剥奪され、西ドイツに追放された。1948年7月までにさらに50,000人が東ドイツに送られた。ハンガリーから追放されたドイツ人の多くはバーデン=ヴュルテンベルク、バイエルン、ヘッセンに定住した。1947年と1948年にはハンガリーとチェコスロヴァキアの間で強制的な住民交換が行われ、74,000人のハンガリー系住民がスロヴァキアから追放され、ほぼ同数のスロヴァキア系住民がハンガリーから追放された。スロヴァキアから追放されたハンガリー系住民やブコヴィナから来たセーケイ人はトランスダヌビア(ハンガリー語Dunántúl)地方の旧ドイツ系居住地だった村々に落ち着いた。 トルナ (Tolna)、バラニア (Baranya)、ショモギ (Somogy)の一部地域では旧住民と新住民が完全に入れ替わった。1949年の時点で自らをドイツ系と申告した者の数はたった22,455人であるが、実際のドイツ系住民の数はもっと多かったと推測される。おそらくドイツ系村落共同体の半分が1944年から1950年にかけてのハンガリーの「暗黒時代」を経て生き残った。現在ドイツ系住民は少数民族としての権利、民族団体の存在、民族学校、地方議会の開催を保障されているが、ハンガリー社会への自発的な同化現象も広く起きている。1990年の鉄のカーテン崩壊後は多くの旧住民がドイツから来て故郷を訪れている。
[編集] ロシア
ロシア各地に住んでいたドイツ系住民も戦後に追放された。カリーニングラード州はロシア本土との間にあるリトアニアとベラルーシによって飛び領土となっているが、ここは歴史的には殆どの期間ドイツ人の居住地域の一つだった。カリーニングラード市の以前のドイツ語名はケーニヒスベルクで、ドイツの歴史にとって重要な都市であった。カリーニングラード州、ポーランドの一部、リトアニアの一部を合わせると、以前はドイツのの東プロイセン州(ナチス・ドイツ時代は東プロイセン大管区)の領域であり、1918年から1939年の間はドイツの飛び領土だった。今日のドイツでは多数のケーニヒスベルク出身者がいる。戦中にソ連領内で実行されたナチス・ドイツの恐怖政治への復讐として、この旧東プロイセン北部地域に住んでいたドイツ人の追放がソ連当局によってしばしば暴力的に行われたが、現時のカリーニングラード州住民のロシア人は過去の歴史をより単純に受け止めている。ソ連時代、このロシアの飛び領土は特別な許可なしに立ち入ることが禁止された軍事区域だったため、旧東プロイセン時代の村々の多くがそのまま放置されている。しかしケーニヒスベルクは1944年のイギリスによる空襲と1945年のケーニヒスベルク要塞攻囲戦によって廃墟と化したため、現カリーニングラード市の中心部は新しく立て替えられている。
[編集] リトアニア
リトアニアで終戦までドイツ領だったのはごく狭い地域だけである。旧ドイツ領だったのは1918年以前と、1939年から1945年の間に東プロイセンだった部分である。しかしあまり重要でなかったと思われがちなこの地域には、ドイツの北東部の端で重要な港湾都市メーメル(現クライペダ)があった。1919年のフランス統治下時代と同様にして、戦後この地域はリトアニアに割譲された。ここのドイツ人の殆どはケーニヒスベルクなどから疎開するドイツ人と一緒に戦後ドイツへと疎開した。残りの人々も1946年に列車に乗せられて追放された。多くの村に住んでいたリトアニア人が、ドイツ人がいなくなったメーメルやその周辺の旧ドイツ人リトアニア人混住地域に引っ越してきた。メーメルの公式名はクライペダに変更された。リトアニアからの引揚ドイツ人とその子孫は旧東プロイセンの他地域出身者と共に主に旧西ドイツに住んでいる。リトアニアに編入された地域が狭くても重要だった名残は、ドイツ国歌のもと1番だった歌詞(この1番はもはや歌われておらず、現在もとの3番だけが正式な歌詞として採用されている)に Von der Maas bis an die Memel (マース川からメーメル川まで)と表現されていた。クライペダはメーメル川河口の都市である。
[編集] 現在の状況
1990年代になるまでドイツ人追放の人道的な見地からの是非の問題はほとんど議論されなかった。ナチス体制時代の一連のプロパガンダでは、チェコスロヴァキアとポーランドの民族ドイツ人 (Volksdeutsche) は迫害されていると宣伝されていた。戦後こういった地域から追放されたドイツ人 (Heimatvertriebene) は西ドイツで活発に政治活動をしたが、西ドイツ国内の政治風土はナチス時代の行為に対する贖罪の風潮が支配していた。しかしキリスト教民主同盟(CDU)の政権は放逐ドイツ人や民間人の犠牲者に対する少なからぬ支援を提供し、いわゆるオーデル・ナイセ線を国境として受け入れることに猛反対していた。社会民主党 (SPD) もオーデル・ナイセ線には反対していた。放逐ドイツ人の政治活動は現在でも活発に行われており、2,000,000万人ともいわれる票田はドイツの大きな政治勢力となっている。
1946年、ウィンストン・チャーチルはアメリカ・ミズーリ州のフルトンでアメリカ大統領ハリー・S・トルーマンの立会いのもと歴史的な演説を行った。この演説でチャーチルはアメリカに「バルト海のシュチェチンからアドリア海のトリエステまで」おろされた「鉄のカーテン」の存在を知らせ、ソ連に指図されたポーランドによるドイツへの不当侵入(つまりオーデル・ナイセ線の設定)と数百万のドイツ難民や放逐者の窮状を強調した。しかし、ポツダム協定で決定された事項に対する責任と承認(消極的ながら)を考えると、チャーチルのこの演説は戦後の政治的アジェンダによるものだったと考えられる。
アメリカ下院議員のキャロル・リース (B. Carroll Reece) は1957年5月16日に議会で、ドイツ人の追放は一種のジェノサイドだと発言した。それはドイツ人の追放の真実に関する調査によって西側同盟国が結論した数百万という死者数を受けてのことと思われる。
1993年11月から12月にかけて、「1944年から1948年における民族浄化 (Ethnic Cleansing 1944-1948)」という展示がシカゴのデ・ポール大学スチュワート・センターでアルフレッド・デ・ザヤス (Alfred-Maurice de Zayas) 教授の指導のもとで行われ、ドイツ人追放は忘れ去られたホロコーストだとされた。
1990年代の初めになると冷戦が終結し、占領軍はドイツから撤退した。ドイツ人による戦争犯罪の影になって見捨てられていた、第二次世界大戦後のドイツ人に対する待遇の問題に再度焦点が当てられるようになった。ソ連の崩壊によって、第二次世界大戦におけるロシア人による犯罪といった以前はあまり重要でないと考えられていた問題が持ち上がってきた。
1989年12月28日、当時チェコスロヴァキアの大統領候補(翌日大統領に当選)だったヴァーツラフ・ハヴェルは、第二次世界大戦後のドイツ人追放に対しては国家として謝罪するべきだと述べた。チェコスロヴァキアの政治家の殆どはこれに反対した。またこの問題についてズデーテン・ドイツ人組織の指導者達からも何の返答もなかった。1990年3月にドイツ大統領のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーがプラハを訪問した際、ハヴェル大統領がドイツ人追放を「我々の父の代の誤りであり罪である」と述べて謝罪をしたのを受けて、ヴァイツゼッカーもチェコスロヴァキアに対して謝罪をした。しかしベネシュ布告は撤回されなかった。
1990年11月14日にポーランドとドイツの間で国境線の再確認をする条約が交わされ、オーデル・ナイセ線が国境として最終的に確定した。この条約では両国の互いの少数民族の諸権利を保障した。これには、民族的背景を持つ姓を名乗る権利、民族の言語を使用する権利、通う学校や教会を任意に選べる権利などが含まれる。これら諸権利は以前には公式には認められていなかった。個人は住みたい国をすでに自ら選んだことが前提となっていたからである。
ソ連のロシア人と、チェコスロヴァキアの民族主義者によるドイツ民間人の大虐殺の問題がこのところ浮上している(アルフレッド・デ・ザヤスAlfred-Maurice de Zayas著A Terrible Revenge)。また、ナチス・ドイツの強制収容所が、ドイツ民間人を収容するために一時的に転用もされた。
アレクサンドル・ソルジェニーツィンとレフ・コペレフ(Lev Kopelev)は、ソ連で兵役に就いているとき東プロイセンの民間人がソ連軍によって酷い扱いを受けていたのを目撃している。コペレフは1945年以降の旧東プロイセンで行われた残虐な出来事に関して自伝三部作であるХранить вечно (To Be Preserved Forever) の中で述べている。
1990年代に入るとポーランドでは歴史的な出来事を再調査する動きが起こり、1998年には国家記銘院(Instytut Pamięci Narodowej, 略称IPN)が設立されて積極的な調査活動をしている。国家記銘院の役割は過去にポーランドで行われた犯罪を被害者や加害者の民族や国籍に関係なく調査することである。ポーランドでは民族や国籍が動機となった犯罪については時効が儲けられていないため、この類の事件の犯人は永久に告発されることになる。ドイツ人に対する犯罪のいくつかがすでに調査された。無実の放逐ドイツ人に対する報復的犯罪の容疑者であるサロモン・モレル (Salomon Morel) はイスラエルに逃亡しているが、イスラエル政府はポーランドへのモレルの身柄引き渡しを拒否している。