親衛隊 (ナチス)
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親衛隊(しんえいたい、独:Schutz-staffel,略号SS)は国家社会主義ドイツ労働者党のヒトラーを護衛する党内組織として1925年に創設された。ナチ党が政権を獲得した1933年後、突撃隊内の反党分子の粛清に大きな役割を果した。以後、親衛隊は国内外の敵性分子を諜報・摘発・隔離・収容・看視する部門として発展する。名誉隊員や示威行進にパートタイム的に召集される一般SS、SS髑髏部隊 (de) の他、武装親衛隊に分けられる。共にドイツ国内のみならず、ヨーロッパ各地の占領地の治安維持、ユダヤ人迫害(ホロコースト)、戦争拡大の強力な道具となる。大戦後、ニュルンベルク裁判にてすべての親衛隊組織は犯罪組織であると宣告される。
親衛隊員のモットーは「Meine Ehre heisst Treue(忠誠こそ我が名誉)」
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[編集] 結成
1920年の結党から1933年の政権獲得まで闘争時代は反対政党に対する武闘組織として突撃隊があった。1925年、アドルフ・ヒトラーは自身を警護させるために突撃隊の下部組織として親衛隊を公式に認めた。ヒトラーは1929年1月6日にハインリヒ・ヒムラーを第四代の親衛隊全国指導者に任じた。当時ヒムラーは突撃隊上級大佐であった。彼は280人に過ぎなかった親衛隊員数を1933年末までには20万9千人に拡大した。1934年6月30日の長いナイフの夜にヒムラーは、ヒトラーの命令に従い、親衛隊を使って党内不平分子の突撃隊指揮官のエルンスト・レームやその他の反党分子を除去した。この実績が認められ、同年親衛隊は突撃隊を離れ独立する。また、1933年の政権獲得後ドイツ各地に建てられて敵性分子収容所の看視任務も親衛隊の専管事項に移行した。これも実績のあったテオドア・アイケ (Theodor Eicke) のSS髑髏部隊への報奨である。これら部隊は後にはユダヤ人絶滅収容所の看視部隊となる。
[編集] 活動
1931年にヒムラーは右腕であるラインハルト・ハイドリッヒを党内諜報組織の親衛隊情報部 (SD) のトップに配し、敵性分子を諜報・監視する役割を与えた。この機関は SS保安諜報部、親衛隊治安部、公安部とも訳される。
1933年には、ヒムラーが親衛隊名誉指導者制を新設。政財界に親衛隊シンパを募る。
1934年4月にヒムラーは、ヘルマン・ゲーリングからプロイセン州秘密警察局(ゲシュタポ)を引き継いだ。
1936年にはヒムラーは親衛隊全国指導者に加えて内務省警察長官 (Chef der Deutschen Polizei) に任ぜられると、秩序警察 (Ordnungs-polizei) をクルト・ダリューゲ親衛隊大将に、保安警察 (Sicherheits-polizei) をラインハルト・ハイドリッヒ親衛隊大将に指揮させた。ハイドリッヒが指揮する保安警察には次の重要な警察機関が含まれている。秘密警察局と刑事警察局である。
1939年第二次世界大戦開戦後、ハイドリッヒは政治警察分野の重複を避けるために党機関のSDと国家機関である保安警察の二つの組織を一つの傘の下に統合した。それが国家保安本部である。SDは第Ⅲ局に、秘密警察は第IV局に、刑事警察は第V局に配置された。戦争の拡大により海外諜報部門として国家保安本部に第VI局(SD-Ausland)が設けられ、局長には30歳で親衛隊少将兼警察少将であるヴァルター・シェレンベルクが配される。
大戦開始時までに親衛隊員数は25万人に膨れ上がる。大多数は名前だけの名誉隊員や週末のみの隊員が多く、行事がある時に制服に着替えて参加するパートタイムである。また、彼らは軍人として訓練されていないのでパレード専門と揶揄される。開戦後はSS特務部隊として戦場に赴き、1940年12月には武装親衛隊と正式に呼ばれる。新兵器の優先供給を受けエリート部隊として、崩壊の危機にさらされるあぶない戦線の火消し役として国防軍に勝る働きを見せることとなる。
[編集] 終焉
第二次世界大戦がドイツの敗戦に終わると、連合国による非人道的行為への追及を恐れた元親衛隊員はオデッサ (ODESSA) と呼ばれる支援ネットワークを通じて海外に逃亡した。
ローマ教皇庁の一部の高官やヨシフ・スターリンの台頭に危機感をもつ米軍防諜部隊(de)(略号:CIC)は、ソ連軍情報に詳しい彼らの逃亡を助けた。ユダヤ人をヨーロッパ各地から絶滅収容所へ移送する責任者だったアドルフ・アイヒマンや、アウシュビッツで人体実験を行った「死の天使」ヨーゼフ・メンゲレ、パルチザン攻撃を受けた報復にローマ市民400人の殺害を命じたエーリッヒ・プリーブケ親衛隊大尉(Erich Priebke)、「リガの屠殺人」と称された強制収容所長エドゥアルト・ロシュマンなど多くの戦犯が、ニュルンベルク裁判の追及を逃れて親独的なアルゼンチンやその他ラテンアメリカ、また反イスラエルの立場を取るエジプトなどに渡った。
[編集] 制服
親衛隊の制服のデザインのモデルとなったのはプロイセン王国時代の近衛兵だと言われている。
1932年以前、SSは「ブラックタイ」および「髑髏の徽章」の黒色の鍔のある制帽を除いて、SAと同じ褐色の制服を着用していた。その後「黒色の制服」、そして大戦開戦直前に陸軍と同様の「灰緑色の制服」を採用した。ドイツの大衆は、政権を獲得するまで長い期間、反対政党との市街戦に明け暮れたSAと比較して統制のとれたSSを賞賛した。
「黒」は神聖ローマ帝国やプロイセン王国の旗の一部を構成する色でもあり、ドイツにとって象徴的な色で高貴な部隊であることを意味する。
「交叉する骨の上に髑髏」で知られる「Totenkopf(髑髏)の徽章」は、一見海賊の旗印にも似ているが、元々ドイツでは伝統的な徽章で、プロイセン王国時代の騎兵の徽章が起源とも言われている。「骨になっても祖国のために戦う」という意味があると言われている。
また親衛隊員は左の腋下に血液型を入れ墨した。親衛隊員は優秀な存在であり、万一の場合には他の兵士に優先して輸血を受ける権利がある、という指導部の思想の為である。
[編集] 構成
[編集] 歴代親衛隊全国指導者
- ユリウス・シュレック Julius Schreck(1925年-1926年)
- ヨーゼフ・ベルヒトルト Joseph Berchtold(1926年-1927年)
- エアハルト・ハイデン Erhard Heiden(1927年-1929年)
- ハインリヒ・ヒムラー Heinrich Himmler(1929年-1945年)
- カール・ハンケ Karl Hanke(1945年)
[編集] 文献
- Eugen Kogon: Der SS-Staat, Das System der deutschen Konzentrationslager, Kindler Verlag, ISBN 3-463-00585-9, 1974
- Heinz Höhne: Der Orden unter dem Totenkopf, Die Geschichte der SS, C.Bertelsmann, ISBN 3-570-05019-X
- Raul Hilberg: Die Vernichtung der europäischen Juden, Fischer Taschenbuch Verlag, ISBN 3-596-24417-X, 1999
- Gerry S. Graber: 『ナチス親衛隊』、滝川 義人訳、ISBN 4-88721-413-8, 2000年
[編集] 関連項目
- アラーアクバル師団(イラク大統領親衛隊)
- 親衛隊少尉
[編集] 外部リンク
- 親衛隊の歌訳とmp3