トヨタF1
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エントリー名 | Panasonic TOYOTA Racing |
---|---|
チーム国籍 | 日本 |
チーム本拠地 | ドイツ・ケルン |
チーム代表者 | 冨田務 |
テクニカルディレクター | シャシー部門:未定 エンジン部門:ルカ・マルモリーニ |
ドライバー | 7. ラルフ・シューマッハ 8. ヤルノ・トゥルーリ |
テストドライバー | オリビエ・パニス リカルド・ゾンタ |
シャシー | トヨタTF106B
|
エンジン | トヨタRVX-06 |
タイヤ | ブリヂストン |
参戦年度 | 2002 - |
出走回数 | 86 |
コンストラクターズタイトル | 0 |
ドライバーズタイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 150 |
表彰台(3位以内)回数 | 6 |
ポールポジション | 2 |
ファステストラップ | 1 |
F1デビュー戦 | 2002年オーストラリアGP |
初勝利 | - |
2006年順位 | 6位 (35ポイント) |
(記録は2006年第18戦終了時) | |
トヨタF1 (TOYOTA F1) は、2002年からF1に参戦しているトヨタ自動車によるF1レーシングコンストラクター。正式名称はパナソニック・トヨタ・レーシング (Panasonic TOYOTA Racing) 。
目次 |
[編集] 概要
トヨタがそれまでに参戦していたカテゴリであるWRCの拠点となっていた、ドイツのケルンにあるTTE(Toyota Team Europe)をベースにした形で2000年に発足したチーム。現在ケルンの施設はTMG(Toyota Motorsport GmbH)としてチームの拠点となっているが、チームの国籍登録は日本となっている。
日本におけるR&Dの拠点はトヨタ自動車の東富士研究所である。他に、フランスのマルセイユ近郊のル=キャステレにあるポール・リカール・サーキットをテストコースとして所有している。
[編集] 歴史
[編集] F1参戦以前
TTEはトヨタ自動車のヨーロッパにおけるモータースポーツチームとして1975年から1999年まで世界ラリー選手権に参戦し、1990年・1992年・1993年・1994年にドライバーズのタイトルを、1993年・1994年・1999年にはマニファクチャラーズのタイトルを獲得した。また、1998年・1999年にはル・マン24時間レースにも参戦し、1999年に2位入賞した。
こうした活動のため、トヨタ自動車はF1参戦の必要性を認めず、1991年に関連会社のトムスがアラン・プロスト、ジョン・バーナードらと共にF1参戦を試みた際にもエンジン供給を断っている(詳しくはプロスト・グランプリを参照)。
こうした従来のモータースポーツ活動で、トヨタのヨーロッパにおける販売シェアは上昇したが、更なるシェア拡大のためには十分ではないと言う結論に達することとなった。 そこで1999年にトヨタは、欧州市場におけるシェア拡大と若者に対するアピールを目的として、新たにF1世界選手権に参戦することを発表した。従来F1界では新規参入メーカーの場合、有力なコンストラクターと組むか、買収することが勝つための常識とされていたが、トヨタはエンジンから車体設計まで全て自社製で参戦することを選択した。
2000年、ヤマハ発動機と資本提携および高回転エンジン開発に関する技術提携を行い、ル・マン24時間で好成績を収めたTS020をテストカーとしてTMGとポール・リカールでの研究開発が始められた。当初は2001年より参戦を開始する予定だったが、F1のエンジンレギュレーション変更などの関係で準備が遅れ、結局2002年より参戦を開始。ドライバーはアラン・マクニッシュとミカ・サロが起用されたが、マクニッシュは1999年ル・マン24時間にトヨタチームで参戦したドライバーであり、また、サロは日本語でのコミュニケーション能力があるなど、このドライバー・ラインナップはマシン開発を重視したものであった。
2001年、TS020を手がけたアンドレ・デ・コルタンツ設計によるTF101を使い、ポール・リカールを中心にテストを行っていた。 しかし、デ・コルタンツ自身が最近のF1の設計に関わっていないために車のデザインが古く奇抜であったため、彼を解雇し、本格参戦用のマシン開発の責任者として、幾多のチームを渡り歩いたグスタフ・ブルナーを雇い入れた。
[編集] 2002年
参戦初年度、開幕戦オーストラリアGPで6位入賞を果たし、最初の目標をクリアした。その後もブラジルGPで6位入賞したが、結局この2回の入賞に終わった。
[編集] 2003年
ドライバーを、オリビエ・パニスとクリスチアーノ・ダ・マッタと一新したこの年、TF103は、フェラーリの前年マシン、F2002をコピーしたという疑惑があったものの、実際に走り出すと月とスッポンのごとく、さほどの成績を残せなかった。
[編集] 2004年
2002年の参戦以来、F1コンストラクターの中でも上位につけるほどの費用を投じていたとされるが、2004年シーズンまでは不本意な成績しか残すことが出来なかった。ドイツGPでダ・マッタが解雇となり、その後はリカルド・ゾンタが、日本GP以降は既にトヨタと2005年以降の契約を結んでいて、イタリアGPまでにルノーを解雇されていたヤルノ・トゥルーリがドライブした。
[編集] 2005年
新たにラルフ・シューマッハがチームに加わり、引き続きトゥルーリもドライブ。第2戦マレーシアGPでトゥルーリがチーム史上初の表彰台(2位)を獲得すると、その後もラルフと2人でポールポジション2回、表彰台計5回をはじめとしてコンスタントにポイントを獲得し、ルノー、マクラーレン、フェラーリに次ぐ、コンストラクターズランキング4位の成績を収めた。 この年からジョーダン、2006年はジョーダンを買収したMF1レーシングへのエンジン供給も行っている。
[編集] 2006年
タイヤをミシュランからブリヂストンにスイッチすることになったが、1,2戦ではタイヤの性能をうまく発揮させることができず苦戦を強いられている。しかし、第3戦オーストラリアGPでラルフが3位表彰台を獲得した。モナコGPには早くも改良型「TF106B」が導入されたが、4月にテクニカルディレクターのマイク・ガスコインが技術的な意見の相違からのチーム離脱や、前年のコンストラクターズランクによる第3ドライバーが使用できないルールなどがあり、コンストラクターズランキングはワークス最下位と壁にぶち当たった。2007年に向け、テストドライバーのゾンタとパニスはチームを離れ、来期はフランク・モンタニーを新たにテストドライバーとして迎える。また、2007年からはウィリアムズにエンジン供給をする事になっており、技術提携などを図る。
[編集] 2007年
[編集] スポンサー
- パナソニック - メインスポンサーで総合家電企業
- デンソー - 自動車部品の日本最大手。トヨタグループ
- BMCソフトウェア - ソフトウェア開発
- ブリヂストン - タイヤを提供
- ダッソーシステムズ - ソフトウェア開発
- エボンダックス - ソフトウェア開発
- EMC - ソフトウェア開発
- エクソンモービル - エッソブランドで潤滑油、燃料を提供
- インテル - ハードウェア開発
- KDDI - 総合通信事業
- マネッティ・マレリ - 自動車電子部品の提供
- タイム・インク - アメリカの出版社
- アルパインスターズ - レーシングスーツ等の提供
- フューチャースポーツ - ドイツのフィットネス企業
- 京都機械工具(KTC) - 工具の提供
- MAN - トランスポーターの提供
- ユーロウィンド - チームに天気予報を提供
- ノーチラス - フィットネス用品を提供
- タカタ - シートベルトを提供
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
2006年シーズンのF1世界選手権を戦うチームと出走ドライバー | |||||||||||
M | RENAULT | M | McLAREN | B | FERRARI | B | TOYOTA | B | WILLIAMS | 使用タイヤ: M: ミシュラン B: ブリヂストン |
|
1 | アロンソ | 3 | ライコネン | 5 | M.シューマッハ | 7 | R.シューマッハ | 9 | ウェバー | ||
2 | フィジケラ | 4 | デ・ラ・ロサ | 6 | マッサ | 8 | トゥルーリ | 10 | ロズベルグ | ||
M | HONDA | M | RED BULL | M | BMW SAUBER | B | SPYKER MF1 | M | TORO ROSSO | B | SUPER AGURI |
11 | バリチェロ | 14 | クルサード | 16 | ハイドフェルド | 18 | モンテイロ | 20 | リウッツィ | 22 | 佐藤 |
12 | バトン | 15 | ドーンボス | 17 | クビサ | 19 | アルバース | 21 | スピード | 23 | 山本 |
井出 (スーパーアグリ-23・第1~4戦) / モントーヤ (マクラーレン-4・第1~10戦) モンタニー (スーパーアグリ-23・第5~11戦) / ヴィルヌーヴ(BMW-17・第1~12戦) クリエン (レッドブル-15・第1~15戦) |