デイリースポーツ
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デイリースポーツは日本のスポーツ新聞。神戸新聞のグループ紙。本社は神戸市中央区で関西に地盤を築いている。
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[編集] 概要
太平洋戦争終結後、日本に進駐してきたGHQは、既存紙の紙面の方針転換を促すとともに新しい新聞の創刊を推奨した。しかし、この頃は新聞用紙が慢性的に不足しており、結局既存紙が用紙割り当て数確保のために積極的に新興新聞発行を行った。神戸新聞系列でも夕刊紙「神港夕刊」を発行していたが、提携先が事実上の独立を神戸新聞に申し入れたため、これに対し神戸新聞側が別の新興新聞発行を検討した。京阪神の売店等で売られている新聞を市場調査した結果、スポーツをメインに据えた新聞を発行することに決定。1948年7月25日付けの神戸新聞社に創刊予告が出され、8月1日に第1号が発刊された。1950年から、タブロイド判からブランケット判に切り替え、1955年には神戸新聞から独立して「デイリースポーツ社」が設立された。同時に東京でも発行されるようになった。スポーツニッポン(1949年創刊)、日刊スポーツ(1950年「オールスポーツ」として創刊)、サンケイスポーツ(1955年創刊)、報知新聞(1964年大阪進出)が関西で発行を始めるまでは、名実ともに「関西唯一のスポーツ紙」であった。現在ではデイリースポーツ社が東京、大阪、神戸の3本社体制に発展し、本州の各地(中京3県、山口県西部を除く)と四国地方で発行している。東京首都圏では1975年から「夕刊デイリースポーツ」(駅・コンビニなどのスタンド売り専売。宮崎県にも夕刊デイリーという新聞社があるが、全くの別物である)も発行している(大阪本社では、それより先の1957年に「夕刊デイリースポーツ」(後に「デイリールック」)という夕刊紙を発行していた)。なお、東日本地域版は1992年までは東京タイムズとの提携で発行したが、同紙休刊以後は日本経済新聞系の印刷工場「日経東京製作センター」(旧・千代田総業)から発行されている。1977年には東京本社版が、次いで1980年には大阪本社版が休刊日発行(号外扱いの即売特別版)を開始した。
創刊当初はプロ野球、アマチュアスポーツ界、芸能界が紙面の中心であったが、1965年以降になるとギャンブル部門を拡大させ、1985年には日航機墜落事故をきっかけに社会面がスタートした。その間の1974年には、厳選した紙面掲載写真を「パネルサービス」として販売を開始している。
1995年1月17日の阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)で、旧神戸本社(三宮・神戸新聞会館)が壊滅的な被害を受けたため、一時は印刷困難になりそうになったが、日本経済新聞や販売提携している地方新聞社の印刷工場などを利用して新聞の発行を続けた。しかし、3月に完全復旧するまでカラー印刷が不可能になったり、紙面のページ数も大幅に削減された。
[編集] 会社所在地
- 神戸本社 神戸市中央区東川崎町一丁目5番7号(神戸情報文化ビル なお、西日本向けの1面題字には住所記載なし)
- 大阪本社 大阪市西区江戸堀一丁目10番8号(西日本向けの1面題字に掲載されているのはこの住所)
- 東京本社 東京都江東区木場二丁目14番8号
- 支社・支局 仙台支局、名古屋支局、広島支社、岡山支局、四国支社(高松)、福岡支局
[編集] デイリーと阪神タイガース
[編集] デイリー=阪神タイガースの経緯
井上章一の『阪神タイガースの正体』によると、当初は必ずしも阪神中心の紙面ではなかった。デイリーが阪神を初めて大きく扱った記事は、「デイリースポーツ40年史」によれば、長く阪神につきまとっていた忌まわしい歴史の一つである「お家騒動」ネタであった。1956年に起こった藤村富美男監督と主力選手との間に起こった紛糾騒動がそれで、デイリーは藤村の退陣要求をスクープ。このニュースでデイリーは他紙を圧倒し、これがデイリーと阪神が初めて結びついた嚆矢と考えられている。東京地区では東京本社が独自に紙面を構成していたが、1975年以降関東のプロ野球ファンの好みの変化が少しずつ起こり、必ずしもファン的には巨人一辺倒ということはなくなってきた。しかし、スポーツ新聞界においては相変わらず「巨人1面」が主流だったため、1982年のプロ野球シーズンオフに、東京での独自性を打ち出す意味もあり「巨人の次に人気がある」阪神中心の紙面づくりに転換した。記事・企画は大阪本社のものをそのまま使い、さっそく同年11月から当時の安藤統男監督に密着取材した企画をスタート。これが読者からの反発がなかったため、方針の継続が決定した。1984年には東京本社にも「トラ番記者」を配置し、「デイリースポーツ40年史」では『この2年ちょっとで「阪神のデイリー」のイメージが読者に焼き付いた」としており、これが現在の反射神経的な「デイリースポーツ=阪神タイガース」のイメージのルーツだと言われている。デイリーでは「阪神勝ち増」と呼ばれる増刷制度を行っており、日本一の1985年には夏ごろから、翌1986年にはシーズン開幕当初から増刷を行っていた。この制度はチーム状況にダイレクトに直結するゆえ、成果が良い時と悪い時の差はあまりにも大きい。この制度のおかげで、1985年11月3日付けのデイリースポーツ(1面・阪神日本一)は最高部数を記録している。
[編集] お膝元での変化
日本一後、阪神は低迷期に入ったが、デイリーは決して阪神を見捨てなかった。この期間こそが事実上、「デイリー=阪神」というイメージを確固たるものにするのに十分な期間だったともいえる。しかし、1992年のペナントレース(阪神が久方ぶりに優勝争いに加わった)あたりから風の流れが微妙に変わり始めた。亀山努、新庄剛志といった新しい人気者が誕生し、特に新庄の甘いマスクは女性ファンを魅了し、俄然注目度も増した。こうなると、デイリーはもとより他のスポーツ紙も阪神を注目するようになった。デイリーの他に阪神を以前から比較的重視していた新聞としては、スポーツニッポン(大阪発行分)が挙げられる。阪神記事のウエイトが大きかったデイリーとスポニチの他に、日刊スポーツとサンケイスポーツ(双方とも、ここでは大阪発行分)が割って入ってきたのである(報知新聞は言うまでもなく巨人主体だが、「伝統の一戦」の関係上阪神記事を大きくするときもあった)。この頃から各紙とも阪神を1面に持ってくることが多くなり、かなり誇張したところでは取るに足らないニュースを1面に持ってくるところもあった。阪神ファンで知られる武豊が「僕がGIを勝った翌日の1面が『新庄腰痛』だった」とギャグにしたり、1995年・1996年のオリックス・ブルーウェーブの優勝・日本一もあったが、阪神偏重傾向は留まるところを知らなかった。当時、イチローがこういう状況を暗に批判していた一方で、「イチロー1面より阪神1面のほうが売れる」という売店・販売店などの声も実際にあった。在阪スポーツ紙が並んで阪神にウエイトを置くようになる中で、デイリーだけが「阪神に強いスポーツ紙」ということはなくなりつつあった。
[編集] 野村・星野両氏の登場とデイリー寡占状態の崩壊
1998年シーズンオフ、阪神に新しい風が吹き込んだ。野村克也の阪神監督就任である。この出来事はデイリーの地位を実質的に押し下げることとなった。それは、野村がデイリーを川藤幸三・スポーツニッポンなどとともに「タイガースの馴れ合い体質」の元凶の一つとして批判したからである。野村に名指しされ批判されたデイリーとスポニチに代わって「阪神機関紙」としてのし上がってきたのはサンケイスポーツであった。サンスポは「ノムさん語録」を他紙より多く掲載したり、阪神選手から「公約」をもらって達成如何で読者プレゼントを出す企画を始めた。サンスポがデイリーなみに阪神記事の増量を図った背景としては、野村氏がヤクルトスワローズ監督時代からサンスポと親密だったこと(野村氏は少年時代新聞配達をしていたが、その新聞が産経新聞でその専売所の息子は現在サンケイスポーツに在籍している)、旧来からデイリーと共に阪神取材で主流派だったスポニチ大阪本社と、野村氏との確執が、南海ホークス時代から根強かったことなどが、有力な説として挙げられている(野村政権末期のスポニチ紙面における、他紙とは明らかに違う、読者投稿欄や阪神タイガース公式サイト掲示板の野村批判まで引用して巻き込んだ、異常なまでの『野村叩き』からも、確執の根深さは伺える)。次いで2001年シーズンオフに星野仙一が監督に就任する。日刊スポーツ解説者出身の星野がなぜサンスポとつながりを持つに至ったかは定かではないが、一説には野村の電撃辞任に伴う後任を決める取材合戦で、サンスポが「星野番」を編成して星野に密着マークをしており(当時、後任の有力候補としては仰木彬らが挙げられており、星野は後任選定レースの最初期においては、酒の席でファンが「星野は阪神ファンだから、本当に来てくれたらいいなぁ」と言う程度の存在だったといわれる)、その「論功行賞」として阪神取材における優先的な立場をサンスポに与えたとも言われている。野村、星野両氏としてはあくまで「各スポーツ紙に公平に取材してもらおう」という魂胆だったと考えられるが、結果的には別の「阪神機関紙」を1つ作り上げた結果となった。デイリー的には、OBを含めた阪神関係者とのパイプは強固だったが、野村、星野といった阪神OBではない大物野球関係者とあまりパイプを持っていなかったことも、地位低下に悪い方向で作用した。
2003年シーズンオフに星野がシニアディレクターになり、岡田彰布が阪神監督になってからも、サンスポがデイリーより実質上位に来るという流れはあまり変わっていなかったが、2004年のプロ野球再編問題や、2005年の村上世彰による阪神電鉄買収騒動等で星野が各方面に顔を出すなど引っ張りダコとなり、これら一連の星野の動きと関連性があるかは定かではないが、再びデイリーとサンスポが同列の立場になったとも言われている。しかし、最近のデイリーでは他のほとんどのスポーツ新聞と同様、サッカー日本代表の重要な試合の結果のような所謂「国民的行事」や、2005年5月30日に死去した二子山親方と同年7月11日に死去したプロレスラーの橋本真也の訃報を一面に持ってきている。しかし、後者に関してはサンスポの大阪発行分のみ阪神記事が一面であった。この辺りからも、阪神取材における力関係の変化がそれとなりに感じられる。もっとも、2005年度日本シリーズに向けた動きのうち取るに足らないレベルの記事(「阪神ナイン千葉に移動」)が1面を飾るなど、このあたりは「いつもの」デイリーのスタンス復活とも読み取れる。
[編集] 現状
現在、東京地区ではデイリーだけが唯一阪神の記事が連日といっていいほど1面を飾っている。そのため、関東の阪神ファンにとっては現在でもデイリーは重要な情報源である。また、テレビを中心とした報道機関でもこの認識は同じであり、阪神が最後まで優勝争いに加わっている時には、だいたいデイリーの東京本社にテレビカメラが入り、紙面構成の様子などを放映している。
しかし、地元関西では前述のように、よほどのことがない限り報知新聞以外は阪神の記事がだいたい1面から3面を飾っている場合が多い。ただ、日刊スポーツに関しては親会社朝日新聞の方針もあってか、最近はサッカー日本代表の記事が一面に来ることが多い。
そのため、デイリーは地元紙であるにもかかわらず、関西の阪神ファンには余り重宝がられていない。それゆえ、現在の関西では東京地区のような「デイリー = 阪神」というイメージは強くはない。むしろ、関西でよく阪神にイコールで結び付けられているのはサンテレビである。また、最近は元阪神の選手だった新庄剛志(現在は北海道日本ハムファイターズ所属)の記事が一面に飾られることがある(阪神との紅白戦、オールスター戦での本盗、甲子園球場での交流戦、引退宣言など)。
いずれにしても、東京ではプロ野球といえば巨人が、大阪では阪神が勝っても負けても一面を飾るスポーツ紙がほとんどであり、パ・リーグの球団はよほどのことがなければ一面を飾ることはない。合併球団のオリックス・近鉄は、1992年以降はいずれもそうした扱いに甘んじ、さらには在阪の民放局までもがこの流れを追随していった。このような阪神に対する偏重が2004年のプロ野球再編問題を生み出したとの批判も強い。さらには2005年、千葉ロッテマリーンズがアジアシリーズを制覇したにも関わらず、関西版のスポーツ紙は日本一を奪われた千葉ロッテへの嫉妬心からか阪神のストーブリーグ情報が1面に出るなど、今でも球界再編問題の教訓が全く活用されていない状態である。
なお、デイリースポーツonlineでは、阪神記事が目に付いたり「デイリー」の「ー」の部分が虎の尾になっていたり(1999年以後の阪神が試合に勝った場合の紙面1面のロゴも同様)、黄と黒を基調とする色調が虎を連想させるものがあり、阪神を応援する姿勢を見せているが、特集記事を除けば、ヘッドライン等基本的構成は他のスポーツ紙のサイトとあまり変わらない。
[編集] 特筆事項
[編集] デイリースポーツとON砲
上記のように阪神タイガースファン御用達の新聞として知られるデイリースポーツであるが、実は「ON砲」の名付け親もデイリースポーツであった。1963年4月、長嶋茂雄と王貞治の読売ジャイアンツのクリーンナップが大活躍したことから、デイリースポーツの記者が「(アメリカ大リーグの「MM砲」(ニューヨーク・ヤンキースのロジャー・マリスとミッキー・マントルの活躍に倣って)彼らの名前の頭文字を取ってON砲としてみるのはどうか」と提案。それが新聞の見出しとして掲載され、以後定着するようになった。引いては、王・長嶋に限らずチームのホームランバッターを「○○砲」と書く嚆矢になった(もっとも、助っ人選手に使われることが多い)。ちなみに、王・長嶋は試合によって3番4番を入れ替えていたので、一部ではその時の打順(3番長嶋、4番王)に沿ってNO砲とする案も検討されたが、そうしてしまうと不発弾になってしまうということで却下されたという。
[編集] 公営競技
競馬ではJRA重賞の「クイーンC」、「デイリー杯2歳ステークス」、船橋競馬場の交流重賞「クイーン賞」に盃や社賞を贈り、また各地で「競馬教室」を開いている。かつて関西地区で放送されていたコマーシャルでジェット風船発射シーンと1999年の桜花賞の映像をバックに「阪神勝ったし明日は競馬や」とシャツ姿の男性役者に言わせている。またNTTドコモのiモードコンテンツの中に「デイリー馬三郎」を開設している。
競輪では1984年に日本選手権競輪(競輪ダービー)の前夜祭を主催したが、「一つの新聞社にやらせるとは」という異議もあって1回限りで終わった。
[編集] 格闘技
1961年にボクシング欄を創設後、一時期流行したキックボクシングに密着したりした後、1977年にプロレス欄を創設した。わざわざプロレス番の記者を作り、扱いも大きく、プロ野球のシーズンオフの時は3面も使うほどの熱の入れようであった。1983年6月3日に蔵前国技館で行われたアントニオ猪木VSハルク・ホーガン戦で、猪木がホーガンの必殺技「アックスボンバー」を食らって失神した際、デイリーはリング下で失神する猪木を激写。この場に居合わせてなかった他紙の記者が、失神した猪木の写真を求めて共同通信社を通じてデイリーの写真(「提供・デイリースポーツ」というクレジット入り)を求める一幕もあった。
実際スポーツ紙において、プロレスの記事というのは以前はほんの少しの記事すら掲載が無かった。その点(プロレス専門のタブロイド紙である”週刊ファイト”(2006年9月休刊)やスポーツ専門紙とは主旨が異なる東京都の夕刊専売地方紙”内外タイムス”を除き)デイリーは昭和の時代から「東京スポーツ」と共にプロレス報道の2大紙と言われる。特にデイリーは女子プロレスに関しても、女子プロブームの頃から緻密な取材を重ねていた。よって「朝に前夜のプロレスの結果を知りたきゃデイリーよ。」(「東京スポーツ」は発売が夕方、地域によっては翌朝の為遅れが生じる)と言われ、デイリーを毎朝・東スポを夕方購入するプロレスマニアは大勢いた。ただ時代が昭和から平成になった頃の新日本プロレスの東京ドーム大会が定番化されたあたりから、それまでプロレスに関しての取材、掲載を行っていなかった他のスポーツ紙も、そのドーム大会の様な大試合に関しては記事を掲載し、次第に殆どの団体の(当時はまだプロレス団体が少なかった)全試合の結果を毎日掲載されるようになり、プロレス取材が強化され現在に至るが、現在はプロレス団体が非常に多く、紙面の都合もあり、主だった団体の結果や寸評、時にはメインイベントだけの結果という様に要約されて掲載される。 ボクシングの面でも、具志堅用高が王座にあった時代のWBAジュニアフライ級の防衛戦を主催した。テレビ中継では毎回デイリーの社旗が映し出されていた。
[編集] 広島版、四国・瀬戸版
デイリースポーツの広島版は、中国新聞社の廿日市工場で印刷され、広島県全域と山口県東部(周南市以東。ただし、萩市内や美祢市内など一部では販売)で販売されている。また岡山県と四国地域向けの版は愛媛新聞社で印刷、関連会社「中四国デイリースポーツ社」が発行している。
広島版は、広島東洋カープとサンフレッチェ広島の報道に力を入れており(カープが勝った翌日の紙面1面はロゴの「デイリー」の「ー」の部分が鯉になる)、広島・山口地区の公営競技面も掲載。四国・瀬戸版でも対象5県で開かれる各種スポーツイベント・公営競技を率先的に取り上げている。中日スポーツや西日本スポーツといったローカルスポーツ紙のない中国・四国エリアでは最も地域に密接したスポーツ紙となっている。
なお、ナイターが深夜遅くまで続いている場合、早版では結果を伝えられない場合がある。(その場合翌日の紙面で結果を掲載する)
[編集] 中京版・九州版
1986年11月、国鉄貨物専用列車の廃止により、九州地区・山口県西部(防府市以西)・中京地区の一部への配送が中止された(福岡県では、博多駅、西鉄福岡(天神)駅など一部地域で広島版が即売のみで販売されている)。
なお、九州版や中京版を発行していた頃は、西鉄ライオンズ特集(九州版)・中日ドラゴンズ特集(中京版)をそれぞれ組んでいた。
[編集] その他
- 一時期、題字に英文字(THE DAILY SPORTS)を入れていたことがある。
- 1990年度中期ぐらいまで120円であったが、現在は一部130円である。これにより東京地区で120円はトーチュウ、大阪はスポニチのみとなった。
[編集] 宅配取り扱い新聞販売店
各地に「デイリー会」なる販売店の交流団体がある。
[編集] 東京本社
- 河北新報(河北仙販を通じて発売)
[編集] 神戸・大阪本社
[編集] 参考文献
- 「デイリースポーツ40年史」『神戸新聞社90年史』神戸新聞社、1988年。
[編集] 関連新聞
[編集] 外部リンク
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