クリチバ
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クリチバ市 (Curitiba) はブラジル南部に位置する都市で、パラナ州の州都。
標高およそ940mという州内でも有数の高地に位置し、近郊にブラジル有数の港湾都市であるパラナグアを有する。
17世紀にパラナ地方において植民都市として築かれたことを起源とする。現在の人口はおよそ170万人であり、ブラジルの南部地方では最大の都市である。
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[編集] 都市データ
ブラジル地理統計院(IBGE)による調査に基づく(いずれも市内のみについてのデータ)
- 人口: 1,757,904人(2005年度)
- 面積: 430,9km2
- 気温: 夏の平均気温は摂氏21度、冬は13度
- 標高: 平均934m
[編集] 歴史
クリチバの歴史は、1630年頃に金鉱を求めて周辺で始められた入植にその起源が求められる。
徐々に村落を形成し、1693年3月29日に村として認められ、パラナ松(Araucaria angustifolia)の広大な林を有していたことから、ノッサ・セニョーラ・ダ・ルース・ドス・ピニャイス(Nossa Senhora da Luz dos Pinhais、松林を守護したもう我らが光の聖母)という名で登録された。おそらくこの名前が言いにくかったこともあり、次第にクリチバという名前で呼ばれるようになり、1721年に町の名称を正式に「クリチバ(Curitiba)」に変更する。クリチバという名の由来については有力説が2説あり、ひとつは、先住民が使っていたトゥピ語で「松(coré)が多い(etuba)」という意味のCoré Etubaから転じたというもの、もうひとつは、やはりトゥピ語で、「大きな(yba)松(kurit)」という意味のKurit Ybaから転じたというものである。
1842年に町に格上げとなり、1853年、サンパウロ地方が分割されたことに伴い新設されたパラナ地方の首府となった。
周辺にそれほど金鉱を有していないことが明らかとなるにつれ、黄金を求めてきた入植者たちはミナス・ジェライス地方へと移っていった。クリチバは長い間、特にこれといった産業を持たず、牧畜が盛んな南部のリオ・グランデ・ド・スルと消費地帯であるサンパウロをはじめとする以北の地域との結節点という地理的優位性から、家畜売買とその中継地として収入を得た。1867年から移民団の受け入れが始まり、イタリア人、ポーランド人、ドイツ人、ウクライナ人を中心に、ヨーロッパから多数の移民が流入することとなる。
1913年には、ブラジル初の大学となるパラナ大学(現在のパラナ連邦大学)が設置されるとともに、これもブラジル初となる電動式の路面電車が敷設された。
1960年代頃までは、あくまで地方都市の枠を出ない存在であったが、以後、政策的な成功も寄与して、商工業が発展し、ブラジルでも有数の富裕な都市となる。その躍進をもたらした都市計画について、その先進事例として世界中に広くその名を知られるようになった。
[編集] 都市計画
クリチバは、都市計画の優れた成功例とみなされている。専用レーン、2連結ないし3連結のバス、バリアフリー化も図られたチューブ型のバス停などを用い、大量かつ高速の輸送を実現した極めて効率的な公共交通システムを有している。日常の足として全市民の85%に利用されている。また、緑地政策においても著しい成功を収めており、クリチバ市において、市民1人当たりの緑地面積は51.5平方メートルであり、これはユネスコが都市に求める基準値のおよそ3倍にあたる面積であり、世界の都市ではオスロについで2番目の広さである。区画整理も綿密かつ柔軟に設定されており、自然環境への悪影響を避けるため工業施設については建設区域が制限されている。
1950年代から1960年代にかけクリチバの人口は倍増し、人口が43万人程度にまで達する。これに懸念を持った市の幹部らは抜本的な対策を講ずる必要性を感じる。1964年に当時の市長イヴォ・アルズアは新たな都市計画の策定を求め、マスタープランの素案を求めるコンペを開催、結果、当時、パラナ連邦大学の学生で後に市長となるジャイメ・レルネルらの社会プロジェクト研究会が最優秀賞を獲る。この際、彼らが提出した案は、都市の乱開発を予防するための厳しい区画管理、市中心部の繁華街における交通(自動車)量の抑制、旧市街の歴史的建造物の保全、便利で手頃な公共輸送システムの構築、といったことを骨子とするもので、これは後にクリチバ・マスター・プランとして広く知られることとなる。レルネルらが提出したこの案を受け入れた市は、調査目的の外郭団体としてクリチバ都市計画研究所(イプキ、IPPUC: Instituto de Pesquisa e Planejamento Urbano de Curitiba)を設立し調査期間を与え、1971年にレルネルが市長に就任して以後、これらの計画は実行に移されることとなる。
市長となったレルネルの基本方針はヒューマンスケールの町作りであり、モットーは「人間のための都市計画」であった。簡潔に言えば、自動車中心の都市政策ではなく、住民である人間を中心とした都市政策である。これは計画段階においても実施段階においても、ブラジリアの例(当時の市幹部はこれを「失敗例」とみなしていた)を多分に踏まえている。
その政策は、まず市内中心部でも有数のメインストリートである、11月15日通り(Rua XV de Novembro)の一区画を閉鎖し歩行者専用道路としたことを手始めに、市内の区画の再整理から着手され、大方針として、市内中心部から放射状に開発するのではなく放射状に設定された開発軸に沿った開発が志向された。
この事業は、公共交通網の整備とも密接に絡み、中でも、専用バスレーンを用いた道路の使用法は、トリニティ・ロード・システム(トライナリー・システム)としてよく知られている。これは、市にとっての開発軸となる主要道路を幹線バス専用レーンとして利用し、側道はあくまで道路沿いの施設にアクセスすることに限定した道として一般乗用車に開放し、1ブロック隔てた左右の道路をそれぞれ、一般自動車用の道路として使用するというものである。これはバスと一般自動車が混在することがないため、両者の混在によって引き起こされる問題を回避でき、円滑なバス運行を可能としている。
1980年代になると、統合輸送ネットワーク(RIT, Rede Integrada de Transporte)が創出され、均一料金で一度払うだけで市内のどこにでもバスで自由に行けるようになった。これは、都市郊外に住むことのデメリットを打ち消すため、郊外に主に住む低所得者層への福祉的な効果もあるものである。同時期に、「知識の灯台」と呼ばれるプロジェクトも開始している。これは施設内に図書館、現在ではインターネット設備、その他の文化的なリソースを提供するための自由に利用できる一種の教育施設で、主に小学校の隣に設置された。この施設は、ブラジルでしばしば問題となる子供たちが放課後を過ごす場所を与えているという点で意義が大きいとされるほか、夜間、文字通り暗い夜道を照らす灯台としての働きをすることで治安向上に一役買っている。
これら数々の都市政策への評価は高く、1996年6月にはイスタンブールで開催された市長や都市計画家らによるサミット第2回国連人間居住会議(ハビタットII)において、「世界一革新的な都市」として表彰を受けている。
現在までは成功といえる都市計画ではあるが、今後の課題もある。犯罪指数は今のところ低いが、スラムやホームレスといった問題は他の大都市同様に抱えており、すでに市内の開発が面積的に限界に達しつつあること、郊外の大規模ショッピングセンター建設に伴う都市の郊外化、など、クリチバ市も頭を悩ませている問題は少なくない。
[編集] 交通システム
クリチバ市は、自家用車を使うよりも公共交通システムを使ったほうが便利、という状況を意図的に構築しており、そのため、その交通システムは誰にでもわかりやすいシンプルなもので、しかも効率的かつ安価なものとなっている。
公共交通手段としてはバスを主に用い、目的に応じて異なったバスを使用している。その種類は10種類にも及ぶが、全てのバスは機能別に色が塗り分けられているため、利用者側には区別が容易となっている。基本的に前扉から乗り、車内の車掌に運賃を支払って後ろ扉より下車する(これは殆どのブラジルのバスで採用されている乗り方である)が、ターミナルから乗る際や幹線バスと直行バスのみ特殊なチューブ型のバス停の場合は入口の改札で運賃を支払う。 このチューブ型のバス停には車椅子用のリフトがあり、車椅子でもバスを気軽に利用できるよう設計されている。
なおクリチバのバスの前面に掲出されている方向幕は行き先ではなく全て「路線名」で表示される。そのため終点でセントロ(ダウンタウン)に行く際も行先を変えることはない。
[編集] RIT - 統合輸送ネットワーク
- 幹線バス(Bi-Articulado): 市街中心部から放射状に広がる5つの軸に敷かれた専用レーンを走る3両連結の大型バスで「ビ・アルチクラード」と読む。鮮やかな赤色の車体で、チューブ型のバス停に停車する形で運行される。ブラジルでは珍しく次の停留所や停留所でのマナーを告げる車内アナウンスがある。仮に乗降客がいなくても全てのバス停に必ず停車するため、乗客は車内の降車ボタンをわざわざ押す必要は無い(ボタンは設置されているが押しても機能しない)。元々は、クリチバ市に地下鉄を建設するだけの資金がなかったために考案されたもので、速度、輸送能力、運行本数などからいっても、その運用形態はまさに「地上を走る地下鉄」といえる。車両はボルボ製で、1編成の定員は270名となっているが、これは「(大柄な)スウェーデン人が乗った場合に」という前提の数字なので、ブラジル人換算での定員は300名近い、と言われている。
- 扉は3両合わせて5つあるが、終点やターミナル以外では真ん中の3つの扉のみ乗降に使用する。扉を5つ全て開閉している際は乗客は既に運賃支払済みの状態の為に入口・出口の区別は無いが、3つのみ使用中の場合は真ん中の扉のみが入口、両脇の2つは出口、そして一番前と一番後の扉は締切となる。
- 各扉が開く際にチャイムが鳴り、それに反応してバス停に設置されている自動扉が開閉される(もしくは改札の係員が操作を行う)。これは後述の直行バスも同様である。
- なお一部では2連接のバスで運行されている路線もある。
- この3連接バス導入を導入する1996年頃より前は車体がオレンジまたは赤色の2連接バスで運行されており、オレンジ色には「Propriedade do Povo(みんなの財産)」、赤色には「Expresso」と書かれていた。また少数だが通常の赤いバスでの運行も行われていた。
- 近郊型バス(Interbairros): 郊外の地域間を環状する緑色のバス。1番線と2番線はより大きい半径で市中心部と郊外を周回し、3番線から6番線は重要な近隣地区との重要な接続を担っている。発音は「インテルバイホス」と読み、路線名は全て数字で表される(例:Interbairros I)。数字が大きいほど長距離を走る路線になる。
- 直行バス(Linha Direta): 2点間を迅速に結ぶことを目的とした銀色のバスで、数ある路線の中でも最も速い。そのため長距離を一気に移動し、停車するバス停の数は少ない。幹線バスと同じくチューブ型のバス停を使用するが、扉間の幅が違う為に乗り場は幹線バスと完全に分けられている(幹線バスはチューブ部分の自動扉が1つであるが、直行バスでは2つある)。このバスの1路線(208番系統)はクリチバ市郊外のアフォンソ・ペーナ国際空港にも運行されており、後述の空港往復バスより速く、かつ安く行くことができる。
- 郊外バス(Alimentador): 主に人口密度の低い郊外路線に使われるオレンジ色のバス。郊外区域から旅客ターミナルへ乗客を運び、幹線バスをはじめとするRIT網の他のバスに旅客を接続させる。比較的古いバスがこのタイプの路線に割り当てられる。
[編集] 標準バス
- 在来バス(Convencional): 市中心部から主に放射状に移動していく黄色のバス。最も一般的なバス停では、まずこれに乗ることになる。
- 病院循環バス(Circular Hospitais): 市内にある市立病院を結び周回する白いバス。
- 観光バス(Linha Turismo): 都市の観光名所を周回するバス。15レアル払うと5回乗車できるチケットがもらえ、好きなバス停で乗降できる。色は白を基調にカラフルな塗装が施されており窓が大きく設けられている。
- 市周回バス(Circular Centro): 市中心部を周回する白い小型バス。市の反対側の区画に向かう時などに歩行者の足として利用されている。このバスには車掌がおらず、乗車時に運転手に運賃を支払う。運行区間が短い為運賃は他のバスより若干安く設定されているが、路線がターミナルに乗り入れないために他のバスに乗り換える際には次のバスで改めて運賃を支払わなければならない。なおこのバスは車内に座席が無く、壁際に寄りかかる姿勢で乗る為に乗り心地はあまり良くない。
- 空港往復バス(Aeroporto Executivo): クリチバ市郊外のアフォンソ・ペーナ国際空港と市内及び長距離バスターミナルを結ぶ銀色の小型バス。市内をぐるりと周回し、空港との間を往復する。(厳密に言えばクリチバ市の管轄外の路線で、空港の地元のバス会社が運行しており、料金も全く別建てである。)
クリチバのバス網はバス停の他に12の旅客ターミナルを持ち、そこではさながら電車の乗り換え駅と同様、追加料金を支払うことなく異なる路線のバスに乗り換えることができる。幹線バスや直行バスの各路線に設けられており、乗客に大きな柔軟性を与えている。
ただし、中にはクリチバ市(Cidade de Curitiba)ではなく、大きなMの文字(Metropolitanoの頭文字)が書かれたバスを見かけるが、これはクリチバ市外へ運行するバスで路線によって運賃が大きく変わるので注意が必要である(ただし、Mの文字入りの基幹バスBi-Articuladoも見かけるがこれのみ市バスと同じ運賃で扱われる)。 バス停は市バスと共通なのでクリチバ市内でも乗降が可能だが、差額を返してもらう事はできない。
一般の自家用車でも市内中心部への迅速なアクセスが可能だが、市内中心部では、道路は一方通行が多く設定され、また、公共交通網に主にウェイトが置かれていることから、自家用車で移動するには若干の不便を強いられることもある。そのため、市内中心部に向かいたい人々にとっては、公共交通網が非常に魅力的な移動手段となっている。中心部の一部区画を除いて、ほとんどの大通りは広々としていることもあって、複合的な結果として、市内中心部では交通渋滞に悩まされることはそれほど多くはない。
最近、市は交通事故件数を減らすため、200個ほどの監視装置を市内各所に設置した。これは制限速度を超過して走っている車を自動的に撮影するタイプのもので、これで違反の現場が撮られたドライバーには、ブラジル国内のどこにいようとも、罰金のチケットが送付されることとなる。市内の制限速度は60km/hだが、人通りの多い場所などでは制限速度40km/hとなっている。
[編集] 日本との関わり
- ブラジルではサンパウロ市に次いで日系人が多い都市であり、その数はおよそ3万人に及ぶ。前述の都市計画にも、中村ひとし(日系1世、元クリチバ市環境局長)、カシオ・タニグチ(日系2世、イプキ所長とクリチバ市長を歴任)、ルイス・ハヤカワ(日系2世、元イプキ所長)といった日系人たちが深く関わっている。カシオ・タニグチはブラジルの州都においては日系人として初の市長である(在任:1997年-2004年)。
- クリチバ市は3つのサッカークラブチームを抱え、その内のひとつに、サッカー選手の三浦知良がブラジル修行時代に一時所属したコリチバFCがある。また、同じくアトレチコ・パラナエンセを、京セラ(京セラミタ)が2005年から支援しており、同時に同チームの本拠地であるジョアキン・アメーリコ・グイマランイス・スタジアム(Estádio Joaquim Américo Guimarães)の命名権を京セラミタ・アメリカが取得し、同スタジアムは現在「京セラアリーナ(Kyocera Arena)」という名称となっている。
- 1984年5月14日に姫路市との間で友好都市関係を結んだ。
[編集] 進出企業
[編集] 主な施設と建物
クリチバの歴史的に意味のあるもののほか、都市計画などの事業を語る上で重要なもののみ取り上げる。
[編集] 市内中心部
[編集] カテドラル
ノッサ・セニョーラ・ダ・ルース聖堂(Catedral Basílica Menor de Nossa Senhora da Luz)。町のランドマークとなっているゴシック様式のカテドラル。市内の中心であるチラデンテス広場に位置する。その名の通り、クリチバの守護聖人である聖母マリアに捧げられている。
クリチバが村として認められたのと同じ1693年に最初の教会が建設され、現在の建物は1876年から1893年にかけて建設されたものである。当時の市の観光政策の影響もあり、1993年に大幅な修復を施され現在まで姿をとどめる。
[編集] パラナ連邦大学
1913年にパラナ大学として設立された、ブラジルで最初の大学(組織としての成立は1912年12月19日)。 1946年までは単科大学だったが、1951年に連邦大学(国立大学に相当)となって以後は大学院なども備えた総合大学となる。現在は、60の学科、124の専攻、41の修士課程と26の博士課程を有する。
現在も残る建物(右写真)は1913年に建設されたものであり、市内のサントスアンドラデ広場に位置し、同市のランドマークのひとつとなっている。
[編集] 11月15日通り
11月15日通り(Rua XV de Novembro)は市内中心部の歩行者専用の大通りである。都市計画を語る上では、同市の市民に文化的な意識変革をもたらした事例の象徴のひとつとして知られている。
1971年以前は車道であったが、当時の新任市長ジャイメ・レルネルの独断で通りの一区画が強制的に歩行者専用道路に変貌し、結果的にこれが通りの商店主をはじめ市民に好評を得たことから、現在は通りの多くの区画が歩行者専用道路となっており、同市で最大の繁華街を形成するにいたっている。(理由は都市の中心地は多数の自動車による大気汚染が発生しやすい為、その軽減を目的にしたとされている)
[編集] 24時間通り
24時間通り(Rua 24 horas)は長さおよそ120mの通りに24時間営業の飲食店など、34の店が軒を連ねる商店街の一種。その機能を象徴するかのごとく、通りの両端には24時間時計が据え付けられている。パイプを組み合わせたモダンな造り。1992年開業。
こうした夜間も営業する商店街(飲食店街)というのはブラジルでは珍しい試みで、市民に安心して憩えるスペースを提供しているだけでなく、周辺の治安悪化に対する抑止効果も期待されている。
この通りは、当時の市長ジャイメ・レルネルが日本を訪れた際、夜でも賑やかな神戸の三宮の繁華街を見て感心したことをきっかけに発案・建設された。
[編集] 主な出身者
[編集] 学者
[編集] スポーツ選手
- 格闘家
[編集] 歴代市長とイプキ所長
[編集] 市長
年 | 名前 | 備考 |
---|---|---|
1835-1838 | José Borges de Macedo | |
1892-1894 | Cândido Ferreira de Abreu | |
1894 | Guilherme Xavier de Miranda | |
1895 | Cyro P. Veloso | |
1896 | Jorge Hermano Meyer | |
1896 | Cícero Goncalves Marques | |
1897 | Ignácio de Paula França | 臨時 |
1897-1898 | Manoel José Gonçalves | 臨時 |
1897-1900 | Cícero Gonçalves Marques | |
1900 | Arthur de Souza Ferreira | |
1900-1907 | Luiz Antonio Xavier | |
1907-1908 | Antonio Rodrigues da Costa | |
1908-1912 | Joaquim Pereira de Macedo | |
1912 | João Antonio Xavier | |
1913-1916 | Cândido Ferreira de Abreu | |
1916 | João Antonio Xavier | |
1916 | Claudino R. F. dos Santos | |
1917-1920 | João Antonio Xavier | |
1920 | Percy Withers | |
1920-1924 | João Moreira Garcez | |
1924-1928 | João Moreira Garcez | |
1928-1930 | Eurides da Cunha | |
1930-1932 | Joaquim Pereira de Macedo | 1930年10月~1932年1月 |
1932 | Avelino Lopes | 1932年1月~1932年3月。市長代理 |
1932-1937 | João Lothario Meissner | 1932年2月~1937年6月 |
1937 | Nicolau Mader Junior | 1937年6月。市長代理 |
1937 | Aluizio França | 1937年6月~1937年9月 |
1937-1938 | Carlos Heller | 1937年9月~1938年1月 |
1938 | Oscar Borges | 1938年2月~1938年4月 |
1938-1940 | João Moreira Garcez | 1938年5月~1940年7月 |
1940 | Angelo Lopes | |
1940 | Rozaldo Gomes de Mello Leitão | 1940年9月 |
1940-1943 | (市長不在期間) | |
1943-1944 | Alexandre Beltrão | |
1945 | Alô Guimarães | |
1945 | Algacyr Munho Maeder | |
1946 | João Macedo Souza | |
1947 | Angelo Lopes | |
1947 | Raul de Azevedo Macedo | |
1948 | Ney Leprevost | |
1949-1951 | Linneu do Amaral | |
1951 | Amâncio Moro | |
1951 | Ernani Santiago de Oliveira | |
1951 | Wallace Thadeu de Mello e Silva | |
1951-1953 | Erasto Gaertner | |
1953-1954 | Dr. José Luis Guerra Rêgo | |
1954 | Ernani Santiago de Oliveira | |
1954-1958 | Ney Amintas de Barros Braga | 1954年11月15日~1958年11月15日 |
19558-1961 | Iberê de Mattos | 1958年11月15日~1961年11月15日 |
1961 | Erondy Silvério | 1961年2月20日~1961年3月11日 |
1962 | Erondy Silvério | 1962年8月28日~1962年10月8日 |
1962-1966 | Ivo Arzua Pereira | 1962年11月15日~1966年11月16日 |
1966 | Erondy Silvério | 1966年11月16日~1966年12月1日 |
1966-1967 | Ivo Arzua Pereira | 1966年12月1日~1967年3月14日 |
1967 | Acyr Haffez José | 1967年3月14日~1967年3月22日。市議会議長 |
1967-1971 | Omar Sabbag | 1967年3月22日~1971年3月15日 |
1971 | Edgar Dantas Pimentel | 1971年3月16日~1971年3月21日。市長代行 |
1971-1974 | ジャイメ・レルネル | |
1975-1979 | Saul Raiz | |
1979-1983 | ジャイメ・レルネル | |
1983-1985 | Mauricio Fruet | |
1986-1988 | ロベルト・ヘキオン Roberto Requião de Mello e Silva | 軍政崩壊後の選挙で選ばれた最初の市長 |
1989-1992 | ジャイメ・レルネル | |
1993-1996 | Rafael Greca de Macedo | |
1997-2000 | カシオ・タニグチ Cassio Taniguchi | 日系人市長(ブラジルの州都として初) |
2001-2004 | カシオ・タニグチ | |
2005- | Carlos Alberto Richa |
[編集] イプキ所長
年 | 名前 | 備考 |
---|---|---|
1695-1966 | Jair Leal | |
1966-1967 | Sady Souza | |
1967-1968 | Luis Forte Neto | |
1968-1969 | ジャイメ・レルネル | 後のクリチバ市長、パラナ州知事 |
1969-1971 | Clovis Milton Lunardi | |
1971-1972 | Lubomir Ficinski Dunin | |
1972-1974 | Rafael Bernardo Dely | |
1975-1978 | Lubomir Ficinski Dunin | 2回目 |
1978-1979 | Carlos Eduardo Ceneviva | |
1979-1983 | カシオ・タニグチ Cassio Taniguchi | 後のクリチバ市長 |
1983 | Osvaldo Navaro Alves | |
1983-1984 | Alcidino Bittencourt Pareira | |
1983-1985 | Acácio Biu | |
1985 | Alcidino Bittencourt Pereira | 2回目 |
1985-1986 | Omar Akel | |
1986 | Edemar Meissner | |
1987-1988 | Adhail Sprenger Passos | |
1989-1994 | カシオ・タニグチ | 2回目 |
1994 | Rafael Bernardo Dely | 2回目 |
1994-1996 | Mauro José Magnabosco | |
1997-1999 | Osvaldo Navaro Alves | 2回目 |
1999-2004 | ルイス・ハヤカワ Luiz Masaru Hayakawa | |
2005- | Clodualdo Pinheiro Junior |
[編集] 姉妹都市
[編集] 関連書籍
- 人間都市クリチバ(著:服部圭朗、学芸出版社、2004年)ISBN 4-7615-2339-5
- 都市の鍼治療 元クリチバ市長の都市再生術(著:ジャイメ・レルネル、丸善、2005年)ISBN 4-621-07614-0
[編集] 関連項目
[編集] 外部サイト
- クリチバ市公式サイト - ポルトガル語のみ
- IPPUC公式サイト - ポルトガル語、英語、スペイン語
- Viaje Curitiba - クリチバ市による観光案内。ポルトガル語のみ
- Curitiba Convention & Visitors Bureau - クリチバ観光案内所。ポルトガル語、英語、スペイン語、フランス語
- ジャイメ・レルネル公式サイト - 元市長の公式サイト。ポルトガル語のみ