辛淑玉
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辛 淑玉(しん すご - Shin Sugok、1959年1月16日 - )は、東京都渋谷区生まれの在日コリアン3世で、自ら設立した人材育成コンサルタント会社・香科舎(こうがしゃ)の代表と人材育成技術研究所の所長を務める実業家、差別撤廃・多文化共生などを追求する人権問題活動家・評論家、作家、カリフォルニア大学サンディエゴ校客員研究員、フェミニスト。
人事院や自治体のほか、民間大企業などで管理職研修、評価プログラム開発、人材能力育成プログラム開発、人材育成環境開発、公開講座、人権に関わる研修・講演に従事。研修や講演は年間百数十回以上に及ぶことも。
韓国籍だが、在日朝鮮人あるいは在日コリアンと自称している。作家としての代表作に『強きを助け、弱きをくじく男たち!』、『鬼哭啾啾』、『怒りの方法』などがある。本名のほか、創氏改名時代の氏「新山」を用いた日本名新山節子(にいやませつこ)があり、せっちゃんの愛称で呼ばれて育つ。またモデル時代に、芸名辛節子を名乗ったこともある。東京生まれの東京育ちでサバサバした性格と語り口であり、自身を「チャキチャキの江戸っ子」とも語っている。
在日コリアンの立場から日本社会全体へ、またフェミニストの立場から男性(日本人男性限定だが)への一見過激な糾弾を行うことが多く、その過激な主張から反発を買うことが多い。しかし、日本人女性の中には、彼女の日本人男性への糾弾に対して共感を覚える者も多く、熱心な支持者も多い。
一方、韓国の儒教文化を「封建的」とも批判している。しかしながら家父長である父に対しては「未だに敬語でしか話し掛けられない」と葛藤する一面も見せている。また、家父長的制度の根源として日本の皇室制度を批判している。
ワイドショー番組嫌いの論客としても有名でテレビ番組で「私はワイドショーが嫌いです!!」で滅多切り発言したほどである。その事から永六輔と親交があり永は「こういう人がワイドショーの司会をやればテレビもよくなるよ…」と発言するほど高く評価している。
親交のある永六輔の手引きで2000年から週刊金曜日編集委員もつとめたが、同性愛者を扱った記事がホモフォビア表現か否かでスタッフらと強く対立、2001年に辞任した。
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[編集] プロフィール
[編集] 生い立ち
大日本帝国統治下の朝鮮生まれで弁護士を目指して中央大学法科を卒業した父と、日本生まれ日本育ちで朝鮮人の母(ただし、当時は大日本帝国統治下で朝鮮という国はない)との間に生まれた。日本の敗戦後、父は外国人扱いとなり弁護士登録資格を剥奪されて就職口がなかったため、一家は貧乏暮らしを強いられる。
4歳の頃、それまで一緒に遊んでいた友だちがいっせいに幼稚園に入園、「幼稚園に行きたい」と父にねだり、父は幼稚園と交渉した結果、朝鮮人の子どもは入園できないことを知り、朝鮮人であることを強く自覚する契機となった[1]。日本の小学校に入学するが、朝鮮総聯活動家の「朝鮮学校は、貧しい人にはちゃんと昼食を支給します」の言葉を信じ、朝鮮学校に転校。しかし昼食の支給はなかった[2]。転校直後、「パンチョッパリ」(半日本人)と呼ばれ、「総括」と呼ばれる反省会の場で「思想が悪い」と「自己批判」させられることもあった[3]。
家計のため、小学校2年のときから内職、小学校4年からはヤクルト販売の仕事に従事。その後成人してから、ヤクルト販売の女性を見かけるたびにヤクルト販売での苦労を思い出し、ヤクルト1本を買い求めて心の中で「ガンバレ」と念じることが習い性となっている[4]。
中学2年のころ、朝鮮学校で夏の遠足「革命キャンプ」のお金が払えないことで教師に責められたため反論。数人の教師から殴られたことで家出する。親戚の家に逃亡してひとときの解放気分を味わったが、連れ戻され、父は手を尽して転校先を探し、杉並区立泉南中学校に転校する[5]。このころ、美容室のヘアモデルで収入を得たのをきっかけに、ヘアショーにも出るようになった[6]。
中学卒業後、都立第一商業高等学校に入学、新宿の焼肉料理店・名月館などさまざまなのアルバイト収入で2つの予備校、代々木ゼミナールと代々木学院に通った[7]。また高校在学中には就職を目指し、商業英語、珠算、簿記、カナタイプなどさまざまな資格検定を取得。
高校卒業後はアルバイトを転々とし、17歳で銀座のモデルクラブに所属。翌年映画のエキストラ出演で知りあった DJ の紹介で、DJ の仕事を得て、モデルと DJ の仕事を兼職し[8]、20歳で博報堂の契約社員(特別宣伝班)となり、一家の借金返済や家計のため、夜間はアルバイトに明け暮れる生活を送る。
博報堂勤務の4年間でおよそ1600回司会を務めた[9]のち、同社を退社。同時に本名(辛淑玉)を名乗ることを決意し[10]、フリーランスの広告業者として独立。翌々年の1985年、台東区三ノ輪に女性社員1人を雇って人材育成会社・香科舎を設立した。その後は「サンデーモーニング」コメンテーターなどとしてテレビでの知名度を上げていった。
[編集] 受賞歴
- 2000年 「多文化たんけん隊」自治研大賞を受賞。
- 2003年 第15回多田謡子反権力人権賞を受賞。
[編集] 脚注
- ↑ 辛淑玉『せっちゃんのごちそう』NHK出版、p.63
- ↑ 前出『せっちゃんのごちそう』、p.59
- ↑ 前出『せっちゃんのごちそう』、p.80
- ↑ 前出『せっちゃんのごちそう』、pp.95 - 96
- ↑ 前出『せっちゃんのごちそう』、pp.113 - 114
- ↑ 前出『せっちゃんのごちそう』、pp.117 - 118
- ↑ 前出『せっちゃんのごちそう』、pp.122 - 123
- ↑ 前出『せっちゃんのごちそう』、pp.130 - 135
- ↑ 在日韓国青年会 会報「アンニョン」第4号インタビュー: 「今、在日青年に〝熱い″メッセージを」(1991年)
- ↑ 前出『せっちゃんのごちそう』、pp.154 - 155
[編集] 編著書・監修書
- 1993年4月 『企業におけるエイズ対応マニュアル』日本能率協会マネジメントセンター、ISBN 4820709720
- 1995年5月 『韓国・北朝鮮・在日コリアン社会がわかる本』ハローケイエンターテインメント、ISBN 4584009473, ワニ文庫(増訂): 1998年8月、ISBN 4584391068
- 1996年3月 『言わせていただきます。』ハローケイエンターテインメント、ISBN 4584009686
- 1998年9月 『女が会社で』マガジンハウス、ISBN 4838710763
- 1998年10月 『不愉快な男たち! 私がアタマにきた68のホントの話』講談社、ISBN 4062094320
- 1999年5月 『日本人対朝鮮人 決裂か、和解か?』(永六輔と共著)光文社、ISBN 4334972195
- 1999年9月 『40秒で面接官の心をつかむ法』中経出版、ISBN 4806112720
- 1999年11月 『こんな日本大嫌い! 辛淑玉対鈴木邦男』(鈴木邦男と共著)青谷舎、ISBN 4915822427
- 2000年2月 『在日コリアンの胸のうち 日本人にも韓国人にもわからない』光文社、ISBN 433400671X
- 2000年6月 『強きを助け、弱きをくじく男たち!』講談社+α文庫、ISBN 4062564432
- 2001年9月 『女に選ばれる男たち 男社会を変える』(安積遊歩と共著)太郎次郎社、ISBN 4811806611
- 2002年1月 『ジェンダー・フリーは止まらない! フェミ・バッシングを超えて』(上野千鶴子と共著)松香堂書店、ISBN 4879740179
- 2002年5月 『愛と憎しみの韓国語』(文春新書)文藝春秋、ISBN 4166602454
- 2003年5月 『鬼哭啾啾 「楽園」に帰還した私の家族』解放出版社、ISBN 4759262172
- 2003年7月 『辛淑玉のアングル』草土文化、ISBN 4794508743
- 2003年12月 『辛淑玉の激辛レストラン 上野千鶴子・佐高信・安部譲二・辛淑玉の4兄妹対談』(上野千鶴子、佐高信、安部譲二と共著、辛淑玉編)生活情報センター、ISBN 4861261023
- 2004年5月 『怒りの方法』(岩波新書)岩波書店、ISBN 4004308909
- 2004年12月 『となりのピカソ ピカソたちのメッセージ』(写真家・武田直との共著)愛媛新聞社、ISBN 4860870301、第2版: 2005年4月、ISBN 4860870328
- 2005年12月 『クイズウルトラ人権100問』(人材育成技術研究所 編、辛淑玉監修)解放出版社、ISBN 4759223363
- 2006年3月 『せっちゃんのごちそう』日本放送出版協会、ISBN 4140054964
- 2006年4月 『ケンカの作法 批判しなければ、日本は滅ぶ』角川書店、ISBN 4047100404
[編集] 外部リンク
- ShinSugok.com(公式サイト)