豊田英二
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豊田英二(とよだえいじ、1913年9月12日 - )は名古屋市出身の日本の実業家であり、トヨタ自動車を「世界のトヨタ」たらしめた人物である。トラック製造が中心だった当時のトヨタ(当時は漢字表記)において、クラウンの開発に乗り出した。これが、トヨタの本格的な乗用車生産へ乗り出す契機となった。
[編集] 来歴・人物
豊田佐吉の弟・平吉の次男。愛知県西春井郡金城村(現・名古屋市西区堀端町)の織物工場の家族に生まれ、愛知県立第一中学校、第八高等学校(現・名古屋大学)を経て、1936年に東京帝国大学(現東京大学)工学部機械工学科を卒業。この間、従弟である豊田喜一郎が豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)内に自動車工場を設立している。英二が学位を取ると、喜一郎は彼をその工場に入れた。会社がその名をトヨタ自動車工業と変えると、同じ年に最初の車が完成したが、生産ラインはゼネラルモーターズの部品を使ったものだった。余談だが、英二は卒業時に工学部で優秀な学業を修めた者に贈呈される「ウェスト賞」を受賞した。
1941年に日本が第二次世界大戦に参戦すると、トヨタの生産能力は軍のトラック製造に向けられた。戦後GHQの財閥解体はトヨタにも影響を及ぼしたが、代わりにその後トヨタは自動車の製造によって日本の再建の一端を担うこととなる。しかし需要の増加にもかかわらず、終戦直後はほとんど破産しかかった状態で、大規模なリストラによって難をしのいだ形となった。
英二は1950年代初頭にミシガン州のディアボーンにあるフォードの工場を訪れた。トヨタは13年間自動車製造に着手してきたものの、製造した自動車は2500台を越えるに留まっていた。フォードの工場では随時一日にして8000台もの自動車を製造しており、英二はアメリカ方式の大量生産方法を採用することを決意した。
1960年にトヨタは日本での自動車製造においてフォードとの合弁事業を提案した。元々の提案は4割、4割、2割に分けた内2割分の所有権を日本の流通業者に割り当てるというものだった。後にフォードの割り当てが5割に引き上げられたが、種々の理由により拒否された。1967年10月、中川不器男社長(三井銀行出身)の急逝に伴い社長に就任。英二は「フォードの拒否の方法には遺憾な点が多い。」と述べている。トヨタは1980年に再び試みたものの、すぐにレーガン政権が日本車の輸入に関して自主規制する協定を強要した。
それならと、今度はアメリカ国内での共同生産を提案した。「我々は戦前、戦後計4回提案を行ったが、いずれも努力が実を結ばなかった。我々はパートナーたる運命にないのだろうかと考えている。」と記している。2001年、フォード社長ジャック・ナッサーはトヨタ社長奥田碩と会談し、その中で小型車の製造においての合弁事業を提案した。
1983年、ゼネラルモーターズとの合弁会社であるNUMMI (New United Motor Manufacturing) が設立され、カローラやそれに基づいた自動車を製造している。1987年、トヨタはカナダオンタリオ州のケンブリッジに北アメリカでは初の完全所有の工場を開設する。続いて翌年にはアメリカ合衆国にもケンタッキー州のジョージタウンに初の完全所有の工場が開設した。アメリカ合衆国には他にも1998年にインディアナ州Pricetonに開設、そして2006年にもテキサス州のサンアントニオにも開設予定がある。
1955年、トヨタは既にクラウンの大量生産を始めており、日本国内では成功を収めたが、1957年のアメリカへの輸出の際には市場にはあまり注目されなかった。しかしながら、1960年代にはコロナ及びカローラは相当なアメリカへの市場参入を達成している。1975年までにフォルクスワーゲンに輸入車第一位の地位を受け渡した。英二は国際化を花道に1982年、喜一郎の長男・豊田章一郎に社長の座を譲り退任。その後、会長として長くトヨタに君臨した。
1983年に豊田は高級車市場でも競争することを決め、1989年にレクサスを発表した。
トヨタは今や日本では最大の自動車業者であり、世界でもゼネラルモーターズに次ぐ第2位を占めている。
1992年にトヨタの会長の座を降りた。現在は最高顧問として影響力を保っている。
[編集] 関連項目
[編集] 著書・参考文献
- Toyota: Fifty Years in Motion Eiji Toyoda 1987年 講談社 ISBN 0870118234