谷垣禎一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
生年月日 | 昭和20年(1945年)3月7日 |
---|---|
出生地 | 京都府福知山市 |
出身校 | 東京大学法学部卒業 |
学位・資格 | 法学士 |
前職・院外役職(現在) | 弁護士 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
|
世襲の有無 | 2世 父・谷垣専一(元文相) |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
京都5区 |
当選回数 | 9回 |
所属党派(現在) | 自由民主党(谷垣派) |
党役職(現在) | 自民党総務 |
会館部屋番号 | 衆・第2議員会館212号室 |
ウェブサイト | 谷垣さだかずHP |
谷垣 禎一(たにがき さだかず、昭和20年(1945年)3月7日 ‐ )は、昭和・平成期における日本の政治家。衆議院議員(9期)。宏池会(谷垣派)会長。血液型O型。
郵政、防衛、大蔵各政務次官、科学技術庁長官(第58代)、金融再生委員会委員長(第3・4代)、国家公安委員会委員長(第68代)、産業再生機構担当大臣、食品安全担当大臣、財務大臣(第4・5・6・7・8代)を歴任。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 政界入り~宏池会のホープ
東京大学法学部卒業後、短期間の弁護士生活を経て、元文相で父・谷垣専一の死去に伴う補選で父の地盤を引き継ぎ、衆議院議員に初当選。
早くから宏池会で将来の総裁候補として期待されており、1996年に「文藝春秋」が企画した「現役政治部記者が選ぶ21世紀のリーダー」では既に3位に選出されている。翌1997年には第2次橋本改造内閣の科学技術庁長官として初入閣。
1998年のいわゆる「金融国会」において小渕内閣の宮沢喜一大蔵大臣のもと、閣僚経験者でありながら政務次官として金融二法の成立に尽力、引続き国務大臣・金融再生委員会委員長に抜擢されたことで、経済政策のエキスパートとしての評価が高まった。
しかし続く森内閣では、加藤紘一の側近であったことから、2000年の加藤の乱に際して行動を共にして挫折。この際、山崎拓と二人だけで本会議に不信任票を投じに行こうとする加藤を、「大将なんだから、行っちゃダメですよ!」と涙ながらに慰留するシーンがお茶の間に流れて話題となった。これを、大きな傷を負ったとみるか、クールなイメージに似合わぬ熱血漢ぶりを示したか、と見るかで評価は分かれているが、今に至るまで谷垣についてまわるのがこのシーンであり、普段はパフォーマンスを得意としない彼を広く認知させる契機にはなったといえよう。
2001年に小泉純一郎が首相となると谷垣を重用し、とりわけ要職である財務大臣を3年にわたって務めたことで表舞台での活躍が増え、また2005年に当時小里派となっていた宏池会から加藤紘一が離脱したのを機に、名実ともに総裁候補として同派を継承したことから、自然とポスト小泉「麻垣康三」の一人と目されるようになった。
2006年、谷垣は消費税案を提案すると与党から反発の声が多く消費税増税論において孤立する。この時、谷垣は「「四面楚歌の項羽のような心境…」と発言する。
2006年の総裁選初出馬へと至った。
[編集] 自民党総裁選出馬
小泉内閣の財務大臣であった2006年7月27日、小泉総裁の後継を選ぶ自民党総裁選挙(9月20日投開票)に立候補することを正式に表明。初めての出馬。
政権構想として
- (1) 財政再建(2010年代半ばまでには消費税を10%に引き上げ)
- (2) アジア外交の立て直し(在任中は靖国神社参拝を控え、日中韓首脳同士が常時対話をとれる「アジアホットライン」の構築)
- (3) 地域社会の活性化(法人税、地方交付税などの税体系の見直しを通じた税収の地域間格差の是正にとりくむ)
などを提示した。
小泉路線の継承を意識する安倍晋三候補との対立軸を打ち出した形だが、小泉内閣の一員としてはこれらの構想を積極的にアピールする機会は少なく、従順に内閣の一員としての務めを果たすことで実績をあげてきた面が大きかった。そのため派内からは政権構想の発表と前後して、けじめをつけて閣僚を辞任すべきとの意見もあり、本人も一時期それを検討したというが、実行には至らなかった。
かつて側近として仕えた加藤紘一は、これまでの関係から谷垣を支援するものと見られていたが、最終的には支持したものの、加藤からの積極的な支援は得られなかった。これは、党や派の世代交代が進めば、自身の出番がなくなるとの加藤の思惑からであると見られる。(が、実際は加藤の総裁候補としての立場はすでに崩れており、谷垣は加藤からの一人立ちをすることとなる。)
9月20日、投開票が行われた結果、谷垣は703票中102票(国会議員66・地方36)を獲得。安倍晋三、麻生太郎に次いで最下位に終わったが、投票までの論戦で政策的に安倍・麻生との対立軸を明確に打ち出して三桁の票を確保したため、今後も党内反安倍勢力として一定の影響力を保ち、次の総裁を目指すとの見方が多い。
[編集] 総裁選後~党内反主流派として
敗北に終わった総裁選をうけて成立した安倍政権では谷垣派からの閣僚・党三役への登用はゼロで、外務大臣に留任した麻生太郎との処遇が際立つことになった。
[編集] 人物・エピソード
スマートな知性派で頭の回転も速く、万事をそつなくこなすと評される。「官僚が選ぶ次期総理になって欲しい政治家ランキング」では1位に選ばれるなど、政策に通じている点が評価されているが、党務などは苦手としており、「汗をかかない」との批判もある。政府での経験の豊富さとは裏腹に、党の要職は総務局長を一度務めたのみである。また自ら率先して前に出るタイプではなく、世間の認知度も低い。このように一般的に地味な印象が強いので、総理の座を狙うにはこういった点の克服が課題といわれており、2006年の総裁選立候補も「ポスト安倍」に向けてのアピールという点が強かった。
二世議員、東大卒や弁護士の経歴から苦労知らずとも思われがちだが、当初から弁護士志望で政治家になる気は全くなく、政界入りは父の急死に伴うもので、後援会に推されて半ば無理やり出馬させられたという。また趣味のため大学を何年も留年〈実質4、5年と言われている。〉したり、司法試験に何度も落ちるといった逸話の持ち主でもある。
麻布中学時代は剣道部、麻布高校時代は山岳部に所属。いずれにおいても部活の先輩橋本龍太郎に指導を受けたという逸話を持つ。趣味は落語鑑賞、サイクリング。何度もロードレースに参加し好タイムで完走している。ネクタイに自転車の絵柄が描かれていたことがあった。ヨーデルも得意。
愛読書は四書五経など中国の古典や宋代の詩人・蘇東坡の漢詩など。日中戦争時、梅機関の中心人物として汪兆銘政権樹立工作に携った影佐禎昭陸軍中将の外孫にあたる。妻・佳子との間に二女あり。
[編集] 略歴
- 1963年 麻布中学校・高等学校卒業。
- 1972年 東京大学法学部卒業。以後断続的に父・専一の秘書を勤めた。
- 1979年 司法試験合格。
- 1982年 弁護士登録。
- 1983年 旧京都2区補選において衆議院議員に初当選。
- 1995年 衆院議運委員長に就任。
- 1996年 自由民主党総務局長に就任。
- 1997年9月11日 科学技術庁長官に就任(翌年7月30日まで)。
- 2000年2月25日 金融再生委員会委員長に就任(同年7月4日まで)。
- 2000年11月21日 「加藤の乱」に際し、派閥の会長であった加藤紘一と行動を共にする。
- 2002年9月30日 国家公安委員会委員長に就任(翌年9月22日まで)。
- 2002年11月8日 産業再生機構(仮称)担当大臣兼務(前同。翌年4月10日、呼称から「(仮称)」が外れる)。
- 2003年7月1日 食品安全担当大臣兼務(前同)。
- 2003年9月22日 財務大臣に就任(第1次小泉第2次改造内閣)。
- 2003年11月19日 財務大臣に再任(第2次小泉内閣、第2次小泉改造内閣)。
- 2005年9月21日 財務大臣に再任(第3次小泉内閣、第3次小泉改造内閣)。
- 2005年9月26日 宏池会会長に就任。(加藤派→小里派→谷垣派)
- 2006年9月 自民党総裁選に出馬、3位。
- 2006年10月 自民党総務に就任。
[編集] 外部リンク
- 谷垣さだかずホームページ(公式サイト)
- 自由民主党京都府支部連合会
- 関連家系図
- 国家公安委員会委員長
- 第68代: 2002 ‐ 2003
-
- 先代:
- 村井仁
- 次代:
- 小野清子
- 金融再生委員会委員長
- 第3 ‐ 4代: 2000
-
- 先代:
- 越智通雄
- 次代:
- 久世公堯