若槻禮次郎
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若槻 禮次郎(わかつき れいじろう、慶応2年2月5日(1866年3月21日) - 昭和24年(1949年)11月20日)は、日本の政治家。第25代および第28代内閣総理大臣。勲一等 男爵。
反対派の政治家からはその名前をもじって「嘘つき禮次郎」と揶揄されたという。国際会議に臨んで「生命と名誉のごときは、これを顧みない」と当時の英米全権に心情を吐露し、外交では評価された。
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[編集] 略歴
現在の島根県松江市雑賀町に松江藩の足軽奥村仙三郎の次男としてうまれ、後に叔父の若槻敬の養子になった。旧制松江中学、司法省法学校をへて東京帝國大學法科を首席で卒業。大蔵省に入省し主税局長、事務次官となり、1911年貴族院議員となる。第三次桂太郎内閣、第二次大隈重信内閣で大蔵大臣をつとめ加藤高明内閣で内務大臣に就任した。内相就任中、普通選挙法、治安維持法を成立させた。ロンドン海軍軍縮会議において首席全権をつとめた。
[編集] 第1次若槻内閣(1926年1月30日 - 1927年4月20日)
加藤首相が在職中急逝したため、憲政会総裁として内相を兼任し組閣。彼の内閣の時期には左派政党で一種、社会主義的な「無産政党」が数多く結成された。
12月25日には大正天皇が崩御し、その日のうちに昭和と改元された。そのため昭和元年は7日しかないのである。
また翌年の昭和2年、衆議院予算委員会で片岡直温蔵相は野党の執拗な追及に対し、部下から受け取ったメモ、「本日正午、東京渡辺銀行支払いを停止せり」を読み上げてしまう。実際には東京渡辺銀行は金策にすでに成功していたが、この発言で東京渡辺銀行に預金者が殺到し、倒産に追い込まれてしまう。これにより金融恐慌が勃発するのである。
大戦景気のあと不景気に悩まされていた銀行や成金たちはここで一気に倒産の憂き目に会うこととなる。特に台湾銀行は成金企業の鈴木商店と深い結びつきを持っていたが、台湾銀行が債権回収不能に陥り、休業すると同時に鈴木商店も倒産し、これは恐慌の象徴的事件ともいえる。台湾銀行の回収不能債権のうち8割近くが鈴木商店のものだったという。
若槻内閣はこの状態に対し、台湾銀行救済緊急勅令案を枢密院に提出するが否決されてしまう。政策実行不能となった若槻内閣は総辞職し、立憲政友会の田中義一に組閣の大命が下ることとなる。
しかし、ここにも実は陰謀が隠されている。若槻内閣は憲政会の内閣である。憲政会は穏健外交を政策に掲げる政党であったため1926年7月から始まった蒋介石の北伐に対してなんらリアクションを取らなかったのである。実はこれが枢密院にとっては気に入らないことであった。その証拠に次代の田中内閣で、同様の勅令案に対して枢密院は全く反対しないのである。
[編集] 第2次若槻内閣(1931年4月14日 - 1931年12月13日)
次に若槻が内閣を組織するのは1931年4月のことである。憲政会はそのとき立憲民政党となっていた。浜口内閣の失策により深刻な不景気を向かえていた国内では「満蒙(満州とモンゴル)は日本の生命線」とまで言われるようになっていたが、満州は蒋介石の北伐により危機に瀕していた。
当時軍部では汚職の続く政治家や失策の多い政党内閣に対し強い危機感が生まれていた。そんななか「世界最終戦論」を唱える関東軍の石原莞爾、板垣征四郎、土肥原賢二らによって柳条湖付近の南満州鉄道が爆破され、日本本国からの連絡を待たないまま彼らは長春を占領、土肥原を新市長につけてしまう。
これは統帥権の所在の不明確さに原因がある。統帥権は憲法上天皇にあるが、実際天皇は軍部に対して直接指令することはなく、内閣の軍部大臣が内閣の方針を軍部に伝えていたのである、緩やかなシビリアンコントロールともいえる。ところが満州事変の場合、閣議で決定した「不拡大方針」を関東軍につたえると、「統帥権干犯だ」といわれ突っぱねられてしまう。つまり関東軍は今までの慣例を破壊してしまったのである。
直後の閣議では不拡大方針が決定され、若槻は両軍部大臣、林奉天大使にもその旨を伝えている。しかし、各新聞は関東軍の行動を絶賛し、世論は満州事変賛成へと動いてゆく。
そんな中、後に首相となる林銑十郎朝鮮軍司令官は関東軍救援を名目にこれまた本国からの連絡を待たずに独断で満州へ侵攻してしまう。関東軍も不拡大方針を無視し錦州を独断で爆撃。これにより今まで沈黙していたアメリカとイギリスが非難声明を出すこととなる。若槻の不拡大方針は国民、軍部に見放され、ついには安達謙蔵内相が「挙国一致」を訴えたため、閣僚にも見放された状態で閣内不一致総辞職となる。
これにより「軍部が既成事実を積み上げれば政府の方針が覆る」という見解が軍部内で生まれ、後の軍部暴走へとつながり、日本は軍国時代へと突き進んでゆくこととなる。
高校、東京帝大のときの試験の成績の平均点は98点。この成績は東大始まって以来最高であり、現在も破られずにいる。戦後、東京裁判に証人として出廷し満州事変について証言している。
[編集] 栄典
- 昭和3年11月10日:勲一等旭日桐花大綬章