重慶爆撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
重慶爆撃(じゅうけいばくげき)とは、日中戦争の最中の1938年12月から1941年9月にかけて日本軍により断続的に行われた重慶に対する戦略爆撃を指す。中国側の資料では死者は計11,800人、家屋の損壊は17,600棟となっているが、3万人以上が死亡したとする説もある。[1]
目次 |
[編集] 概略
1938年、日中戦争で首都南京が陥落し、日本軍は戦争終結への期待をしたが、蒋介石率いる中国国民党は首都機能を重慶に臨時移転させ、日本軍への徹底抗戦を継続した。そのため、日本軍は中国の臨時首都重慶の攻略を計画したが、海岸から遠く離れた天然の要害の地であり、補給の問題から陸軍による攻撃は不可能とされた。そこで、重慶に対しては、九七式重爆撃機、九六式陸上攻撃機を主体とする陸海軍航空兵力による戦略爆撃を実施することとなった。
爆撃目標は「戦略施設」であり、アメリカ、イギリスなど第三国の施設への被害は避けるようにと厳命されていたが、重慶は霧がちで、曇天の日が多いため精密爆撃は不可能で、事実上無差別爆撃に近かった。
[編集] 評価と影響
重慶爆撃は日中戦争・第二次世界大戦・太平洋戦争と続くこの時期の世界戦争の中で、1937年のゲルニカ爆撃に続く最初期の都市空爆(戦略爆撃)である。 日本軍は度重なる重慶爆撃にも関わらず、蒋介石の中国を落とすことはできず、この作戦は軍事的には失敗であったといえよう。しかし、この都市空爆に着目した連合国は手法を学び、その後、遥かに大きな規模の無差別空爆をヨーロッパの都市および日本の都市に行うこととなる。
[編集] 関連項目
- 井上成美
- ゲルニカ爆撃(en:Bombing of Gernika)
- ロンドン空襲
- 東京大空襲
- ドレスデン爆撃
- 広島市への原子爆弾投下
[編集] 脚注
[編集] 外部リンク
- 歴史記録映像昭和15年-重慶爆撃(IPA「教育用画像素材集サイト」」) - 動画あり