住栄作
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住 栄作(すみ えいさく、1920年5月20日 - 1986年12月20日)は、日本の海軍軍人(海軍主計大尉)・政治家(元衆議院議員)・官僚。法務大臣・建設政務次官・労働省職業安定局長などの要職を歴任し、富山職業訓練短期大学校・富山医科薬科大学の開設を推進した。自由民主党所属。住博司は実子。富山県魚津市出身。位階勲等は従三位勲一等。
[編集] 来歴・人物
富山県の農家に生まれた。九人兄弟であったという。旧制魚津中学校から旧制富山高校に進学。魚津中在学中は陸上競技部に所属し5000mで活躍。1940年、東京帝国大学(現在の東京大学)法学部に入学。在学中に高等文官試験合格。1943年卒業。海軍経理学校に入校(海軍主計科短期現役第10期)する。1944年、海軍経理学校を卒業。海軍主計大尉として南洋諸島を転戦。レイテ島で終戦を迎える。復員後の1946年、内務省入省。富山県に出向し経済部農務課長に就任。1947年、労働省新設に伴い移籍。1972年、富山一区から衆議院議員選挙に立候補。トップ当選を飾る。以後6回連続当選。1983年の総選挙以外はすべてトップ当選であった。
1978年、第一次大平正芳内閣で総理府総務副長官に就任。1980年、建設政務次官に就任。1981年、小川新一郎の紹介により、利根川河川敷と、埼玉県羽生市の牧草地をラジコン専用飛行場として認可。 1983年、第二次中曽根康弘内閣で法務大臣に就任。ロッキード事件以降、初めて田中角栄元首相に近くない法務大臣といわれた。1984年、自由民主党本部放火襲撃事件の際、酔っ払って現場に姿を現し、浜田幸一に対し「マッチポンプみたいだ!」と暴言を吐き、浜田に殴打された。1986年、特派大使としてコロンビア大統領就任式に参列。1986年12月20日、国立病院医療センターで死去。1987年1月29日、第108回衆議院本会議で安田修三によって弔詞が読まれた。剣道五段、空手二段、囲碁四段というツワモノ。
[編集] 主な役職
- 中央労働委員会事務局長
- 衆議院社会労働委員会理事
- 衆議院建設委員理事
- 衆議院予算委員会理事
- 自由民主党全国組織局長
- 自由民主党国民生活局長
- 自由民主党政調社会部会長
- 自由民主党総務局長
- 自由民主党経理局長