神武天皇即位紀元
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神武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)は、初代神武天皇の即位を起点(紀元)とする日本の紀年法である。通称は皇紀(こうき)、皇暦(こうれき)、神武暦(じんむれき)、神武紀元(じんむきげん)などともいう。
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[編集] 概略
神武暦は太陽暦であり、グレゴリオ暦よりも660年大きな値となる。このずれは年により変わることは無く一定である。例えば2000年は、神武暦2660年となる。
明治から昭和20年の終戦までは元号と共に神武暦がよく使用されていた。現在では公の暦で神武暦をみることはほとんどないが、神武暦が公式に廃止されたわけではない。現在でも、法令上は元号とグレゴリオ暦と共に神武暦が使用されており、例えば閏年の置き方はグレゴリオ暦ではなく神武暦を元に決められている(明治31年5月10日勅令第90号)。その他にも、日本史や日本文学などの愛好家、全日本居合道連盟などが使用している。
米国中央情報局(CIA)のWebページにある"The World Factbook"(各国要覧)の日本の項目には、"Independence: 660 BC (traditional founding by Emperor JIMMU)"とされている。
なお、神武天皇はその実証が困難であり、また古墳の出現年代などから考古学上はヤマト王権の成立は紀元後2世紀前後であるとされているため、神武天皇が紀元前660年に即位したことが事実であるとは考えられていない。
[編集] 制定
明治5年旧暦11月15日(当時の日本の暦は太陰太陽暦の天保暦で、太陽暦のグレゴリオ暦だと1872年12月15日)の太政官布告第342号により定められたもので、明治6年(1873年)1月1日の日本における太陽暦採用と同時に施行された。
[編集] 紀元前660年となった根拠
干支は60年の周期で単純に繰り返すので簡易に計算できる。そのため神武天皇の即位年の「辛酉年」は日本書紀の編年から遡ると紀元前660年に相当することになる。
明治時代に歴史学者那珂通世が、日本書紀はその紀年を立てるにあたって中国の前漢から後漢に流行した讖緯説(しんいせつ)を採用しており、推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から逆算して1260年遡った紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年として起点設定したとの説を立てた。これは隋の煬帝により禁圧されて散逸し、『易緯』や『詩緯』に逸文として残る唯一の讖緯説の書『緯書』にある鄭玄の注に、干支が一周する60年を1元(げん)といい、21元を1蔀(ぼう)として算出される1260年(=60×21)の辛酉(しんゆう)年に、国家的革命(王朝交代)が行われる(辛酉革命)という事に因む。
- 辛酉年の春正月の朔(訓はつひたち、新月すなわち月齢0=太陰太陽暦では常に1日で、このときの干支は庚辰)に、天皇、橿原宮に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳を天皇の元年とす。(「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」『日本書紀』神武天皇元年正月朔の条)。
[編集] 皇紀2600年
昭和15年(1940年)が「皇紀2600年」にあたることから政府は昭和10年に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮や関係陵墓の整備などの記念行事の推進を進めていたが、その当時は「神国日本」の国体観念を徹底させようという動きが強まっていたため、これらの行事はおしなべて神道色の強いものであった。橿原神宮の整備には修学旅行生を含め、121万人が勤労奉仕し、北京神社、南洋神社(サイパン)、建国神廟(満州国)などの海外神社もこの年に建立された。
また、国際的イベントもこの年にあわせて開催しようと考えられていた。それはオリンピックや万国博覧会を日本の首都東京で開催しようというもので、実際に下記イベントの開催が国際的に決定していた。
だがこれらは、昭和12年に始まった日中戦争の長期化にともない、結局両方とも中止された。しかし、東京の勝鬨橋のように、このイベントに合わせて造られた建造物は幾つか存在する。
政府は長引く戦局と窮乏する生活による国民の鬱屈感をさまざまな祭りや行事に参加させることで晴らそうとし、昭和15年当年には、年初の橿原神宮の初詣ラジオ中継に始まって、紀元節には全国11万の神社で大祭が行われ、また展覧会、体育大会などさまざまな記念行事が全国で催された。11月10日には宮城前広場において政府主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催されて祝賀ムードは最高潮に達したが、これを境に再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活はますます厳しさを増していくことになる。
式典に合わせて「紀元二千六百年」が作曲され、ひろく流行した。
なお、当時は軍事輸送を強化しようと言う観点から、「贅沢は敵だ」・「遊楽旅行廃止」・「行楽輸送で大事な輸送を妨げるな」といったスローガンが駅に張られるなど、観光旅行の自粛を政府は国民に呼びかけていたが、皇室に関係する明治神宮・橿原神宮・伊勢神宮などへの参拝は例外とされ、寧ろ割引乗車券を販売するなど推奨していた。国民は長く旅行を遠慮していた事もあって、大手を振ってこれらの神社へ出かけ、昭和15年(1940年)の橿原神宮参拝者は約1000万人、伊勢神宮は約800万人を数えた。又、伊勢神宮・橿原神宮を沿線に持っていた大阪電気軌道・参宮急行電鉄・関西急行電鉄(大軌・参急・関急電、現在の近畿日本鉄道(近鉄)の前身)や大阪鉄道(大鉄、現在の近鉄南大阪線など)・奈良電気鉄道(奈良電、現在の近鉄京都線)といった私鉄会社は、この輸送に対処すべく臨時列車を多く設定し、国鉄も同じようにして輸送に努めた。
ちなみに一般にゼロ戦としてよく知られている日本海軍の「零式艦上戦闘機」は、この年に採用された事に因んだ名称である。(兵器の制式名の数字は皇紀の下二桁によっていた)
[編集] 皇紀と安田生命保険
安田生命保険(今の明治安田生命保険)は1970年代に個人情報管理のシステムを構築することになった。その際システムの担当者は、20数年後に生じるであろう2000年問題を予測していた。そこで、年号の下2桁にグレゴリオ暦や元号ではなく神武暦(グレゴリオ暦-40年)を使用した。そのことにより、安田生命保険は2000年問題を40年先送りした。