漢中郡
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漢中郡(かんちゅうぐん)は、古代中国に存在した郡。後に漢中(かんちゅう)は、郡の役所が置かれた南鄭(なんてい、現在の陝西省漢中市)を中心とした一帯の名称となる。
現在は陜西省に属しているが、西安とは秦嶺山脈ではばまれた孤立した盆地になっている。かつては蜀の桟道と呼ばれる険しい道を通らないとたどり着けない地で、北は秦嶺山脈、南は巴蜀(四川省)に挟まれた一帯である。長江の支流である漢水が流れる肥沃な盆地であり、漢水の中程にあるので「漢中」と名付けられたと伝えられている。
経済的には豊かな土地ではないものの、北は関中(今の西安一帯)、南は巴蜀、東は漢水を下って長江流域に出られることから交通の要所であり、関中や巴蜀を支配する勢力にとっては漢中を押える事は軍事的に重要であった。
広義の蜀もしくは漢中は、狭義の蜀(現在の成都一帯)、巴(現在の重慶一帯)、漢中の3つを会わせた一帯の事を差す。
[編集] 歴史
古くは梁州に属し、後には独立した国家を持っていたが戦国時代に秦に併合される。紀元前325年、漢中郡と命名されて南鄭県に郡治(郡の役所、及びその所在地)が設置された。一時楚に奪われるも紀元前312年に回復した。
秦が滅んだ後は、劉邦は本来封じられるべき関中では無く、この漢中の地に封じられた(ただし当時、漢中を関中の一部に含む説もあった)。そのため劉邦は漢王(「漢中王」の略)を名乗り、皇帝に付くと国号を漢とした。現在の漢民族や漢字などの名称もこれにちなんでいる。
後漢の時代は、益州に属していた。黄巾の乱で世の中が乱れると五斗米道がこの地に勢力を伸ばし、三国時代には張魯が南鄭を漢寧と改名して独自の王国を築き上げ、益州の牧であった劉焉と対立していた。
後に張魯は、魏の曹操に降伏する。曹操は南鄭の呼称に戻して夏侯淵を駐屯させるが、蜀の黄忠率いる劉備軍に大敗し、劉備の所有する領土となる。漢中を支配した劉備は漢中王に即位し、後漢が滅ぶと漢の皇帝として即位した(ただし、一般的には蜀・蜀漢と呼ばれている)。劉備の死後は、丞相諸葛亮が漢中に駐屯し、北伐の拠点としていた。
三国を統一した西晋は梁州を復活させて漢中郡を所属させる。南北朝時代には、南朝と北朝の両勢力が接しており、その帰属は度々変更された。隋の時代に一時「漢川郡」と改称したが、唐になって旧に戻され、後に梁州の管轄区域が漢中郡のみとなるとそのまま梁州と改名された。徳宗の時代、節度使の反乱によって都・長安を追われた徳宗が漢中に仮首都を置き、以後「興元府」と改名した。北宋には興元府は利州路の治所となり周囲の成都府路・梓州路・夔州路と合わせて「四川路(川峡四路)」と呼ばれるようになる。その後、金に奪われるものの、北側に接していたモンゴル帝国が南下の際に興元府を占領して漢水から金の領土の南側に回って南北から挟撃、金の滅亡につながった。モンゴル帝国が分裂して元には興元府に代わって「興元路」が設置され、同時に興元路の帰属も従来の四川から分離されて陝西省に変更された。
1370年、明の洪武帝は興元路を「漢中府」として唐以来途絶えていた漢中の呼称を復活させた。1601年、南鄭県に万暦帝の息子・瑞王朱常浩を封じた。清になっても漢中府の呼称は維持されて、辛亥革命後には一時「漢中路」が置かれたが、後に陝西省に再統合された。
中華人民共和国が成立した1949年、漢中の中心であった南鄭県を分割して県の市街地中心部を南鄭市とした。1953年に南鄭市は現在の漢中市に改名された。
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