清原氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
清原氏(きよはらし)は、平安時代の氏族。
[編集] 平安貴族 清原氏
天武天皇の皇子 舎人親王の血筋。四世王であった小倉王の子 夏野が、小倉王の弟 石浦王の子 長谷ともども臣籍降下して清原朝臣の姓を賜った。以来、中堅貴族となる。清原深養父は歌人としても名を残す。清原元輔の娘 清少納言は『枕草子』を著したことでも有名。清原氏の子孫は公家の舟橋家をはじめ、庶家を多数輩出した。清原家は漢文の注釈などを家業にする文章の家で、現在東京大学に所蔵されている清家文庫はかつてこの清原家が所持していたもの。
その清原氏の清原宣賢(きよはらのぶかた、文明7年(1475年) - 天文19年7月12日(1550年8月24日))は、室町時代の清原家の学者。吉田神社詞官神道家吉田兼倶の3男だったが、明経博士だった清原家に養子として入る。官位は正三位少納言。越前国一乗谷にて天文19年(1550年)に76才で歿。子は、吉田家を継いだ兼右、「兼見卿記」を残した兼見、和歌古今伝授を受けた細川藤孝を生んだ娘など。孫は清原枝賢。 宣賢は宮中に仕えて講義を行い、明経道を整理して多くの国学儒学の論文著作をおこなった。 享禄2年(1529年)に宮仕えから身を引き、剃髪して環翠軒宗武と号し、学者としての活動に専念した。国学者・儒学者で歴史上屈指の碩学とされ、多くの著作がある。清原宣賢の著作物は現在も多く残されており、日本国学研究の基礎資料となっている。なお、清原家は四代後の秀賢から舟橋家を称したため、清原宣賢を船橋大外記宣賢と記した史料もある。
[編集] 出羽の俘囚長 清原氏
朝廷に服属した蝦夷を俘囚といい、清原氏はこの俘囚の主(『陸奥話記』)と史料に見える。自身も俘囚の一族ではないかとも考えられているが、系図では上記清原氏の深養父系とされている。しかし深養父の子から出羽清原氏に繋がる部分の信憑性に疑問があることから、元慶の乱で都から来た清原令望を祖とする在庁官人ではないかともいわれている。『陸奥話記』等でも安倍氏と違い「真人」の姓が明記されており、鎮守府将軍に補任されることが出来たことからも単なる俘囚ではないとする見解が多いが、実際の家系についてはまだ不明な点が多い。一部には海道平氏(岩城氏)の一族ではないかとする見方もある。また、光頼系と武則系の通字が、前者は「光」、後者は「武」・「衡」と異なることから両者を別系と見る説も出されている。
陸奥の俘囚豪族安倍氏と河内源氏源頼義の戦いである前九年の役にて当主清原光頼は当初は中立を保つも、参戦依頼に応え、光頼の弟武則が率いる大軍をもって安倍氏を滅ぼした。その結果、武則が朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任され、安倍氏の旧領奥六郡を併せ領する大族となる。
武則の跡を子武貞が継ぎ、さらにその子真衡が継いだ。真衡は延久蝦夷合戦で活躍し鎮守府将軍となったとする説がある。真衡は、棟梁の権限を強め、平氏の岩城氏から養子を取って後継者(成衡)とし、さらにその妻に源氏の女を迎えた。真衡はこうして武家としての清原氏を確立させようとしたが、その過程で一族の長老吉彦秀武や弟清衡、家衡と対立し、その鎮圧戦の最中に急死した。源義家の調停により遺領は二人の弟が分け合うこととなったが、この条件を不服として家衡が清衡を攻撃。最終的に清衡を応援した義家が家衡を滅ぼした。この一連の内紛を後三年の役といい、勝利した清衡は奥州の覇権を握り、摂関家に届け出て実父藤原経清の姓藤原を名乗るに至り、清原氏は滅亡。