延久蝦夷合戦
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延久蝦夷合戦(えんきゅうえぞかっせん)は平安時代の戦役。
[編集] 概要
西暦1069年から1074年ごろの延久年間に、陸奥守源頼俊は清原貞衡と兵を率い蝦夷を攻略し、津軽半島と下北半島までの本州全土を朝廷の支配下に置くことに成功した。これは、桓武・嵯峨朝以来の大遠征であった。支配下に入った地域には津軽郡、上北郡、下北郡、閉伊郡などが置かれた。これ以降近代(江戸時代後期)に至るまで津軽海峡までが日本の北端(当時の感覚では東端)となった。
1051年から1062年の前九年の役(奥州十二年合戦)で陸奥の安倍氏が滅亡し、出羽の清原氏が陸奥も支配することになり、それと同時に、陸奥鎮守府と出羽秋田城に分かれていた東夷成敗権が鎮守府に一本化された。この延久蝦夷合戦では朝廷軍の主力は清原軍であり、また出兵中に陸奥国印が盗難されるという不祥事があり、結果として貞衡だけが軍功を認められ、奥羽における清原氏の勢力は益々盛んになり清原貞衡(清原真衡と同一人物との有力説がある)は鎮守府将軍に叙せられた。しかし、この合戦での軋轢や当主真衡への一族の不満などから、前九年の役当時には一枚岩であった清原氏内部には次第に不協和音が生まれ始め、最終的には後三年の役を招いたとの評価がある。
なお、この合戦で「衣曾別嶋」まで遠征を行ったと史料にあるが、この「衣曾別嶋」が蝦夷(北海道)であるという説と本州北部であるという説があるなど、この合戦についてはまだまだ未詳な点が多くあり、まだ一般的に教科書には登場していない。今後の研究の進展が期待されている。