桜島
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標高 | 1,117 m | |||
位置 | 北緯31度35分19秒 東経130度39分17秒 |
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所在地 | 日本(鹿児島県) | |||
山系 | (独立峰) | |||
種類 | 活火山ランクA(成層火山) | |||
初登頂 | - |
桜島(さくらじま)は、鹿児島県の錦江湾(正式には鹿児島湾)にあり、現在も活動を続けている御岳(おんたけ)と呼ばれる活火山がこの半島を形成している。北岳・中岳・南岳から成り、周囲約55km・面積約77km²、最高峰は北岳の1,117mである。海の中にそびえるその姿は、特に異彩を放っている。桜島の全域が鹿児島市に属する。
目次 |
[編集] 桜島の歴史
桜島は非常に新しい火山である。約2万5千年前、姶良カルデラで発生した入戸火砕流と姶良丹沢火山灰の噴出を伴う巨大噴火によって現在の鹿児島湾の形が出来上がった(右衛星写真の鹿児島湾奥部、桜島より上の部分に相当)。桜島はこの巨大カルデラ噴火の後に活動を始めた。
約2万2千年前鹿児島湾中で北岳が噴火を始め、安山岩やデイサイト質の溶岩を流出しながら大きな火山島を形成していった。特に約1万1千年前、北岳から噴出した火山灰の地層は日本各地に広がっておりサツマ火山灰と呼ばれている。噴火活動は約4千年前から南岳に移行した。708年(和銅元年)以降、30回以上の噴火が記録に残されており、特に文明、安永、大正の3回が大きな噴火であった。
[編集] 文明大噴火
1468年(応仁2年)に噴火したが被害の記録はない。その3年後、1471年(文明3年)9月12日に大噴火が起こり、北岳の北東山腹から溶岩(北側の文明溶岩)を流出し、死者多数の記録がある。2年後の1473年にも噴火があり、続いて1475年(文明7年)8月15日には桜島南西部で噴火が起こり溶岩(南側の文明溶岩)を流出した。さらに翌1476年(文明8年)9月12日には桜島南西部で再び噴火が起こり、死者多数を出し、沖小島と烏島が形成されたと伝えられている。
[編集] 安永大噴火
1779年(安永8年)9月29日の夕方から地震が頻発し、翌10月1日の朝から井戸水が沸き立ったり海面が変色するなどの異変が観察された。昼頃に桜島南部から大噴火が始まり、その日の夕方には桜島北東部からも噴火が始まった。大量の軽石や火山灰を噴出し、溶岩も流出した(安永溶岩)。薩摩藩の報告によると死者153名、農業被害は石高換算で合計2万3千石以上になった。翌年1780年(安永9年)8月11日と10月4日にも噴火が発生、続いて1781年(安永10年)3月18日には桜島北東海上の噴火によって津波が発生し、被害が報告されている。一連の火山活動によって桜島北東海上に燃島、硫黄島、猪ノ子島など6つの火山島が形成され安永諸島と名付けられた。島々のうちいくつかは間もなく水没したが、最も大きい燃島には1800年(寛政12年)から人が住むようになった。噴火後に付近の海水面が上昇したという記録があり、噴火に伴う地盤の沈降が起きたと考えられている。
[編集] 大正大噴火
[編集] 概要
1914年(大正3年)1月12日に噴火が始まり、その後約1ヶ月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され多量の溶岩が流出した。一連の噴火によって死者58名を出した。流出した溶岩の体積は約1.5km3、溶岩に覆われた面積は約9.2km2、溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになった。また、火山灰は九州から東北地方に及ぶ各地や小笠原諸島でも観測され、軽石等を含む降下物の体積は約0.6km3、溶岩を含めた噴出物総量は約2km3(東京ドーム約1600個分)に達した。噴火によって桜島の地盤が最大約1.5m沈降したことが噴火後の水準点測量によって確認された。この現象は桜島北側の海上を中心とした同心円状に広がっており、この中心部の直下、深さ約10kmの地中にマグマが蓄積されていたことを示している。
[編集] 噴火の前兆
1913年(大正2年)6月29日から30日にかけて伊集院町を震源として発生した弱い地震が最初の前兆現象であった。同年12月下旬には井戸水の水位が変化したり、火山ガスによる中毒が原因と考えられる死者が出るなどの異変が発生した。12月24日には桜島東側海域の生け簀で魚やエビの大量死があり、海水温が上昇しているという指摘もあった。
翌1914年(大正3年)1月に入ると桜島東北部で地面の温度が上昇し、冬期にも拘わらずヘビ、カエル、トカゲなどが活動している様子が目撃されている。1月10日には鹿児島市付近を震源とする弱い地震が発生し、翌11日にかけて弱い地震が頻発するようになった。噴火開始まで微小地震が400回以上、弱震が33回観測されている。
1月11日には山頂付近で岩石の崩落に伴う地鳴りが多発し、山腹において薄い白煙が立ちのぼる様子も観察されている。また、海岸のいたるところで温水や冷水が湧き出たり、海岸近くの温泉で臭気を発する泥水が湧いたりする現象も報告されている。噴火開始当日の1月12日午前8時から10時にかけて、桜島中腹からキノコ雲状の白煙が沸き出す様子が目撃されている。
[編集] 噴火の経過
1914年(大正3年)1月12日午前10時5分、桜島西側中腹から黒い噴煙が上がり、その約5分後、大音響と共に大噴火が始まった。約10分後には桜島南東側中腹からも噴火が始まった。間もなく噴煙は上空3000m以上に達し、午後になると桜島全体が黒雲に覆われ、断続的に爆発が繰り返された。午後6時30分には噴火に伴うマグニチュード7.1の強い地震(桜島地震)が発生し、対岸の鹿児島市内でも石垣や家屋が倒壊するなどの被害があった。
1月13日午前1時頃、爆発はピークに達した。噴出した高温の火山弾によって島内各所で火災が発生し、大量の軽石が島内及び海上に降下し、大量の火山灰が風下の大隅半島などに降り積もった。午後5時40分に噴火口から火焔が上っている様子が観察され、午後8時14分には火口から火柱が立ち火砕流が発生し、桜島西北部にあった小池、赤生原、武の各集落がこの火砕流によって全焼した。午後8時30分に火口から溶岩が流出していることが確認された。桜島南東側の火口からも溶岩が流出した。
1月15日、赤水と横山の集落が桜島西側を流下した溶岩に覆われた。この溶岩流は1月16日には海岸に達し、1月18日には当時海上にあった烏島が溶岩に包囲された。一方、桜島南東側の火口から流下した溶岩も海岸に達して海上を埋め、1月29日には瀬戸海峡を塞ぎ桜島が大隅半島と陸続きになった。このとき瀬戸海峡付近の海水温は49℃に達した。溶岩の進行は2月上旬に停止したが、2月中旬には桜島東側の鍋山付近に新たな火口が形成され溶岩が流出した。1915年(大正5年)3月、溶岩の末端部において二次溶岩の流出があった。
噴火活動は1916年(大正5年)にほぼ終息した。
[編集] 避難の状況
噴火の前兆となる現象が頻発し始めた1月11日から住民の間で不安が広がり、桜島東側の住民の中には避難を始める者もあった。住民の不安を受けて地元の行政関係者が鹿児島測候所(現在の鹿児島地方気象台)に問い合わせたところ、地震については震源が吉野付近(鹿児島市北部)であり、白煙については単なる雲であるとし、桜島には異変がなく避難の必要はないとの回答であった。このため特に桜島西部において住民の避難が遅れ、1月12日午前の噴火開始直後から海岸部各所に避難しようとする住民が殺到し大混乱となった。
桜島東側の瀬戸海峡は海面に浮かんだ軽石の層が厚さ1m以上にもなり、船による避難は困難を極めた。対岸の鹿児島市は鹿児島湾内に停泊していた船舶を緊急に徴用して救護船としたが間に合わず、混乱によって海岸から転落する者や泳いで対岸に渡ろうとして凍死したり溺死したりする者が相次いだ。この教訓から、鹿児島市立東桜島小学校にある桜島爆発記念碑には「住民は理論を信頼せず異変を見つけたら未然に避難の用意をすることが肝要である」との記述が残されており、「科学不信の碑」とも呼ばれている。
桜島対岸の鹿児島市内においては1月12日夕刻の地震発生以降、津波襲来や毒ガス発生の流言が広がり、市外へ避難しようとする人々が続出した。鹿児島駅や武駅(現在の鹿児島中央駅)には避難を急ぐ人々が集まり騒然となった。市内の混乱は1月17日頃まで続いた。
噴火によって桜島島内の多くの農地が被害を受け、ミカン、ビワ、モモ、麦、大根などの農作物はほぼ全滅した。耕作が困難となった農地も多く、島民の約3分の2が島外へ移住した。移住先は大隅半島と宮崎県を中心とした日本各地のほか、朝鮮半島に移住する者もあった。
[編集] 昭和以降の歴史
- 1939年(昭和14年)11月: 南岳東側山腹に形成された新噴火口から火砕流が発生。
- 1946年(昭和21年)1月: いわゆる昭和噴火。約3ヶ月間爆発を繰り返した後、南岳東斜面から溶岩が流下して海岸に達した。死者1名、噴出物総量約1億m3。
- 1955年: 南岳で爆発、死者1名、負傷者11名。これ以降、南岳山頂付近は立ち入り禁止となった。
- 1956年-2001年: 年間数十回から数百回程度の爆発を繰り返し、日常的に降灰が続いた。昼間でも薄暗くなることもあった。このうち、1967年8月、1974年5月、1976年11月、1979年11月の噴火において火砕流が発生している。
- 1960年: 桜島火山観測所開設。
- 1974年: 泥流による二次災害で死者8名。
- 2006年: 6月7日に昭和噴火の火口跡付近において爆発。
[編集] 桜島の名称
桜島は古代において「鹿児島」と呼ばれていたとの説があるが確証はない。1334年(建武元年)頃の記録では「向嶋」と呼ばれており、「桜島」の名称が記録に現れるのは1476年(文明8年)以降である。その後しばらくの間、「向嶋」と「桜島」の名称が併存していたが、1698年(元禄11年)薩摩藩の通達によって桜島の名称に統一された。「向嶋」の名称は、東西南北どの方向から眺めてもこちらを向いているように見えることに由来する。
「桜島」の名称の由来については、以下の3説がある。
- 島内に木花咲耶姫命を祭る神社が在ったので島を咲耶島と呼んでいたが、いつしか転訛して桜島となった。『麑藩名勝考』『三国名勝図会』
- 10世紀中頃に大隅守を勤めた桜島忠信の名に由来する。『麑藩名勝考』
- 海面に一葉の桜の花が浮かんで桜島ができたという伝説に由来する。『麑藩名勝考』
[編集] 産業と生活
- 全島が火山噴出物で構成されているため生育に適する農作物は限られている。特産品として、かぶらを大きくしたような世界一大きい大根「桜島大根」と、世界一小さなみかん「桜島小みかん」が有名。
- 桜島の溶岩を利用した焼肉プレートが販売されている(注意:桜島の溶岩は許可がなければ持ち出しはできない)。
- 風によって火山灰が運ばれるため、鹿児島県内のテレビ・ラジオ放送の天気予報では桜島上空の風向きの情報が流される。
- 掃除などで集められた火山灰を廃棄する場合は、専用の袋に入れて指定場所に置かなければならない。(右写真参照)
- 定期的に桜島の噴火を想定した桜島からの避難訓練が行われている。また、いつでも噴火する可能性があるので、飛来する(かもしれない)噴石避けの「避難壕」が桜島各所に設置されている。
- 桜島と鹿児島市街地との間は、24時間運航の鹿児島市営桜島フェリーによって結ばれている。
- 雨が激しいときには大隅半島から桜島へと渡る国道が閉鎖される。
[編集] 参考文献
- 石川秀雄著 『桜島 −噴火と災害の歴史−』 共立出版、1992年、ISBN 4-320-00882-0。
- 鹿児島県編 『櫻島大正噴火誌』 1927年。
- 桜島町郷土誌編さん委員会編 『桜島町郷土誌』 横山金盛(桜島町長)、1988年。
- 橋村健一 『かごしま文庫13 桜島大噴火』 春苑堂出版、1994年、ISBN 4-915093-19-0。
- 横山泉、荒牧重雄、中村一明編 『岩波講座 地球科学7 火山』 岩波書店、1982年。
[編集] 外部リンク
- 安全対策(大隅河川国道事務所)
- 桜島国際火山砂防センターホームページ
- 気象庁桜島情報ページ