朝鮮共産党
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朝鮮共産党(ちょうせんきょうさんとう)は、日本統治時代の朝鮮の共産主義を標榜する革命政党として1925年、ソウルにおいて創設された。一般的には現在の北朝鮮の指導政党である朝鮮労働党の前進と見なされる事が多いが事実はそうではないといわれている(→詳細は戦後の朝鮮共産党・南朝鮮労働党派を参照の事)。なお同党の組織は、第二次世界大戦前の第1次~第4次朝鮮共産党、および戦後の朝鮮共産党の5つに分類される。
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[編集] 第1次朝鮮共産党
日本統治時代の朝鮮で、1919年の三・一独立運動などの民族運動の背景を受け、労働運動・農民運動が高揚し1924年には統一組織=母体が生まれ、一方でロシア革命後の影響によりイルクーツク・上海などに共産党組織委員会ができ、朝鮮国内においてもソウル青年会・新思想研究会などの諸団体が組織されこれらを背景に全国的な革命運動組織として1925年4月17日にソウルにおいて創建。結成当初の指導的人物は朴憲永、金在鳳ら。全体の組織要員は20代から30代の青年らで構成した。その後、新義州事件が日本官憲らにより露見して、主要な党員・幹部らの一斉摘発・検挙が行われた(第一次朝鮮共産党事件)。
[編集] 第2次朝鮮共産党
1925年に朴らの検挙後、事実上後継責任者となった姜達永(当時の朝鮮日報晋州支局長)を中心に組織を再建。姜は民族主義者との共同戦線をめざそうと尽力し、また海外においても日本や満州(現在の中国東北部)に総局を設置するなどして活動を推行した。ちょうど1926年4月26日に李朝最後の皇帝、純宗の死去のさい第二の三・一独立運動を展開しようとして天道教に接近。同時に、学生を動員しビラ10万枚を配布する事件が発覚した(第二次朝鮮共産党事件)。
[編集] 第3次朝鮮共産党
1926年12月残った党幹部でML派の金錣沫らによって(第二次組織委員)が組織され、これまでの派閥の解消と団結に尽力した。~1928年2月日本官憲の弾圧によって組織が再び壊滅。
[編集] 第4次朝鮮共産党
1928年2月~7月 コミンテルン朝鮮問題委員会が相次ぐ派閥間の分裂と抗争・指導権争い、インテリ主導の体制を強烈に批判。「12月テーゼ」を出し、労働者・農民が母体となって党組織を再建し、階級闘争運動の強調(民族主義者との共闘には否定的な見解を示唆した)を指示する。 「一国一党」原則によって日本総局(1931年解散)・満州総局の解散(1930年解散)。しかし、この段階において余りにも派閥争いや、党の民族主義的偏向が顕著なため、既にコミンテルンから朝鮮共産党の事実上の解散指令が通達されていた。
[編集] 戦後の朝鮮共産党
1945年には第二次世界大戦による日本の敗戦で朝鮮は独立し、獄中にあった朝鮮共産党の指導者らも次々と出獄した。これにはかり、すでに亡命中のソ連の東方大学から帰国した朴憲永は翌年の1946年1月に早くも現在の韓国方面で南朝鮮新民党、朝鮮人民党や各種の労働者・農民団体を母体として同党組織を再結成した。しかし、アメリカの軍事占領下および南半分(現在の韓国)の李承晩政権の発足で、共産主義者にたいする弾圧が開始され、党の主要幹部らは越北し、金日成が組織していた北朝鮮労働党との合同を打ち出し、1950年4月、合併。これが現在の朝鮮労働党の結成となるが現在の北朝鮮当局は朝鮮共産党は修正主義の産物として存在自体否定している。また、朴憲永は朝鮮戦争時、アメリカのスパイ説で処刑されているが真相は全くの無根だとされている。
[編集] 関連項目
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