三・一独立運動
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三・一独立運動 | |
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タプコル公園のレリーフの1枚 | |
各種表記 | |
ハングル: | 삼일운동 |
漢字: | 三一運動 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
さんいちどくりつうんどう |
片仮名: (現地語読み仮名): |
サミルンドン |
ラテン文字転写: | March 1st movement |
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三・一独立運動(さんいちどくりつうんどう)は、日本植民地統治下の朝鮮で起こった独立運動。1919年3月1日に起こったことからこう呼ばれる。独立万歳運動や万歳事件とも(日本では三・一運動、三・一事件)。韓国では三一節として3月1日は祝日に指定されている。
目次 |
背景
運動が起こる前年(1918年)、パリ講和会議において、米国大統領ウッドロウ・ウィルソンにより"十四か条の平和原則"が発表されている。これを受け、民族自決の意識が高まった日本に留学中の朝鮮人学生たちが東京に集まり、「独立宣言書」を採択したことが伏線となったとされる。これに呼応した朝鮮半島のキリスト教、仏教、天道教の指導者たち33名が、3月3日に予定された高宗の葬儀に合わせ行動計画を定めたとされる。
運動は、開始後朝鮮半島全体に広がったが、運動の広がり方についての解釈は複数ある。高宗が日本政府によって毒殺されたという噂が運動に火をつけたとも言われ、また、きっかけを作った宗教指導者らが独立宣言文を読み上げただけで以降の運動には関わっていないことから、自然発生的な広がりとも考えられている。あるいは、運動が広がった早さから計画性があったのではないかとも言われる。
経緯
3月1日午後、京城(現・ソウル)中心部のパゴダ公園(現・タプコル公園)に宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げたとされる。参加者は、天道教(カトリック)代表15名、その他キリスト教(プロテスタント)代表16名、仏教代表2名(韓龍雲ハンニョンウン、白龍城ペクヨンソン)の計33名であったという。独立宣言書は崔南善(チェナムソン)によって起草され、1919年2月27日までに天道教直営の印刷所で2万1千枚を印刷し、その後、天道教とキリスト教の組織網を通じて朝鮮半島の13都市に配布したとされる。 しかし、金完燮(キムワンソプ)著『親日派のための弁明2』(P101~102)によれば、独立宣言を読み上げた場所は、「群集を刺激すれば暴動に変質する可能性がある」という宗教指導者らの自発的な懸念から、当初予定したパゴダ公園ではなく近くの妓生(キーセン)屋敷・泰和館(テファグァン)に変更されたとしている。さらに、泰和館に集まったのは仏教代表2名を除く(同書P94)31名であるとしている。仏教代表が参加しなかった理由について同書では、「機密維持」を理由にパゴダ公園集合の事実を知らせなかったからだとしている。また知らせなかった理由については、仏教は李氏朝鮮下で弾圧を受けた歴史があり、一方日本が仏教に関しては寛容であったことから、「朝鮮仏教がもろ手をあげて(朝鮮総督府を)歓迎していただろうことは十分に推測できる」とし、それが原因で警戒されたためとしている。独立宣言を読み上げた後、31名は泰和館の女将を通じて警察に電話をかけさせ、自首したとされる。
やがて独立宣言に呼応した一般市民が群集と化し、「独立万歳」と叫ぶ示威行動が起きた。同日、時を同じくして平壌でも示威行動が起こった。以降、運動は朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が展開された。これに対し朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たった。
結果
朝鮮総督府当局による武力鎮圧の結果、失敗に終わった[1][2][3]。活動家は外国へ亡命し、独立運動は挫折した。以降、1945年の日本敗戦に至るまで大規模な運動は起こらなかった。
この運動に伴う検挙者数・死傷者数に関しては今なお論争がある。当時の朝鮮総督府の記録によると553名が死亡し、負傷者は約1409名、収監された者約8500名とされている。また『朝鮮独立運動之血史』(朴殷植)によると7509名が死亡したとされている(ただし著者は当時上海に亡命しており、死傷者数は伝聞によるものであると本書中で断っている)。その他の記録でも検挙者数・死傷者数について食い違いがある[4]。朝鮮総督府側は、警察官及び憲兵8名が死亡、152名が負傷(他に陸軍4名が負傷)したとされる。いずれにせよ、独立を唱える大規模な示威行動が朝鮮半島において展開され、その過程で暴徒と化した群集を朝鮮総督府が武力によって鎮圧する際、死傷者が出たことは確かである。また、鎮圧の過程で提岩里事件が起きた[5][6]。
後に独立派の中心人物となった金九は、事件後中国の上海に逃亡し、大韓民国臨時政府に参画している。朝鮮人移住者の多かった満州の間島地域では、独立軍の抗日武装闘争が活発化し、青山里戦闘などの事件が起きた。
憲兵警察制度を廃止し、集会や言論、出版に一定の自由を認めるなど、朝鮮総督府による統治体制が武断的なものから文治的なものへと方針転換される契機となった。
評価
三・一独立運動は、同年中国で起こった五四運動や、欧米の植民地支配にあった東南アジアやインドの民族主義を覚醒させた意味でこの事件の持つ意義は大きく、一連の独立運動の契機として評価すべきとする見方がある[7]。
韓国では、独立運動の様子を描写したとするレリーフがソウル特別市のタプコル公園に作られており、毎年3月1日に同公園に人々が集い独立運動を偲んでいる。
故郷の天安で独立運動を行い、逮捕・起訴後懲役3年の有罪判決を受けてソウルの西大門刑務所に収監され、獄中で死去した梨花学堂学生柳寛順(ユグァンスン)(当時17歳)は、後に「独立烈士」として顕彰されている。彼女は韓国において、フランスの国民的英雄ジャンヌ・ダルクになぞらえ「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれ、尊敬を集めている。
同時期の日本でも、柳宗悦のように独立運動に共感を示した著名人がわずかながらいた。
物的被害状況
暴徒による物的被害は、面事務所全壊19ヶ所、半壊33ヵ所、警察署・警察官駐在所・憲兵分隊・憲兵分遣所・憲兵駐在所などの全壊16ヵ所、半壊29ヵ所、郵便局全壊2ヵ所、部分壊9ヵ所。
司法の対応
「万歳騒擾事件一」(友邦協会編纂)によれば、逮捕・送検された被疑者12,668名、このうち3,789名が不起訴により釈放、6,417名が起訴され、残り1,151名は調査中とある(1919年5月8日時点)。1919年5月20日時点で一審判決が完了した被告人は4,026名。このうち有罪判決を受けたのは3,967名。死刑・無期懲役になった者、懲役15年以上の実刑になった者はいない。3年以上の懲役は80名。
きっかけを作った宗教指導者らは、孫秉熙(ソンビョンヒ、天道教の教主)ら8名が懲役3年、崔南善(チェナムソン)ら6名が懲役2年6ヶ月の刑を受け、残る者は訓戒処分または執行猶予などで釈放されている。
下級審で3年以上の比較的重い刑を宣告された者でも、最終的には最高裁判所において内乱罪の適用が一括して棄却され、保安法及び出版法などの比較的軽い構成要件のみの適用により、刑期も大幅に短縮された。 最高裁で確定した刑期も、1920年の大赦命令によりさらに半減されている。
脚注
- ↑ 朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』(三省堂、1974年)では「すさまじい弾圧」と表現している(215頁)。
- ↑ 姜徳相『呂運亨評伝1: 朝鮮三・一独立運動』(新幹社、2002年)では「民衆の蜂起と日本の弾圧」という表現を用いている(165頁)。
- ↑ 吉田光男編著『韓国朝鮮の歴史と社会』(放送大学振興会、2004年)では「激しい弾圧」としている(140頁)。
- ↑ 和田春樹・石坂浩一編『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』(岩波書店、2002年)では「朝鮮総督府の武力弾圧で約7500人が死亡、4万6000人が検挙された」とされている(106頁)。
- ↑ 朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』(三省堂、1974年)では「堤岩里事件」を「日本軍が村人を教会堂に集め、出入り口を閉ざし、外から銃火を浴びせ」、「教会堂に放火して生き残った人々をも一人残らず焼き殺した」事件であったと説明している(216頁)。
- ↑ 金完燮(キムワンソプ)著『親日派のための弁明2』(扶桑社、2004年)では、提岩里近くで起きた小学校焼き討ちと警察官2名の殺害事件に関する取調べの際、容疑者の逃走を阻止する過程でやむなく起こったとされる。また、教会焼失の原因を近所からの失火としている。
- ↑ 朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』(三省堂、1974年)(215-217頁)
参考文献
杉本幹夫著『「植民地朝鮮」の研究』 (展転社、2002年)