秋田城
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秋田城(あきたのき又はあきたじょう)は、日本の古代において、出羽国秋田に置かれた城柵である。
[編集] 沿革
8世紀当時の中央政府は、東北地方の蝦夷軍事的制圧を積極的に進めており、日本海側では、708年(和銅1)に出羽郡をたて、712年(和銅5)出羽国へ昇格させた。この前後、出羽経営の軍事・行政拠点として出羽柵(でわのき)という城柵が現在の庄内地方(山形県)に置かれた。その後、中央政府の勢力圏が北進したことに伴い、733年(天平5)12月26日、出羽柵は秋田村高清水岡(現在の秋田県秋田市)へ移設された(続日本紀)。これが秋田城の前身である。
秋田へ移った出羽柵は、760年(天平宝字4)頃に秋田城へ改称されたらしい(大日本古文書『丸部足人解』)。続日本紀には、780年(宝亀11)8月23日、秋田城へ派遣された鎮狄将軍(ちんてきしょうぐん)安倍家麻呂の具申に対して朝廷から「秋田城は、前将軍や宰相が建てたものであり、長い年月を経てきた」と回答したことが見え、760年頃に秋田城へ機構改変したことを裏付ける。このときの安倍将軍と朝廷の応答において、秋田城は蝦夷による攻撃にさらされるため放棄すら検討されたが、専任国司1人と軍兵を派遣することが決定され、かえって防御が強固となった。これにより、次官国司である出羽介が秋田城介(あきたじょうのすけ)として城に常置され、出羽北部の統治に当たることとなった(詳しくは秋田城介を参照。)。なお、8世紀後期には秋田城に国府が置かれていたことが、発掘調査などにより推測されている。
804年(延暦23)、蝦夷の反乱が激しくなり、秋田城は停廃されて秋田郡となった。これは、秋田城に置かれていた国府が別の場所へ移転したことを意味すると見られている。秋田城は、蝦夷対策のため完全に停止されることなく、出羽北部の軍事・行政拠点として存続した。
830年(天長7)、秋田城が出羽大地震により倒壊したことが、記録に見える(日本逸史)。878年(元慶2)に勃発した俘囚の大規模反乱(元慶の乱)の際は、俘囚側が秋田城を占拠する事態に至り、鎮守将軍として派遣された小野春風の条件提示により反乱側との妥結が成り、秋田城が回復された。939年(天慶2)にも俘囚が蜂起し、秋田城が攻撃を受けている(天慶の乱)。このように、秋田城は被害を受けることが多かった。発掘調査によれば、11世紀の遺構が確認されており、この頃までは存続したようである。しかし、1050年前後の前九年の役の影響で秋田城介が城に常在しなくなったため、それ以降、秋田城は衰退したと考えられている。
1939年(昭和14年)に国の史跡となり、考古調査が行われた。一辺約550メートルの不整方形の瓦葺き土塀跡、東西94メートル・南北77メートルにわたる官庁跡などが発掘されている。
[編集] 外交
奈良時代には、沿海州付近にあった渤海国からの使節がたびたび出羽へ来着した。外国使節の歓待は、秋田城において行われたとする見方が有力となっている。秋田城趾からは、迎賓館ではないかと推測される遺構も発掘されている。804年に秋田城が停廃された後、渤海使の出羽来航は途絶えた。