平野光泰
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平野 光泰(ひらの みつやす、1949年4月23日-)は、大阪府出身。昭和後期から平成期(1970年代-1990年代)のプロ野球選手、野球解説者。右投げ右打ち。
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[編集] 来歴・人物
私立大阪明星高等学校時代は投手で、3年生時の1967年には春・夏連続して甲子園に出場した。卒業後、社会人野球のクラレ岡山へ進み、ここで外野手へ転向。1971年秋に開催されたドラフト会議で、近鉄バファローズから6位指名され、プロ入り。背番号は9。ちなみにこの年のドラフト会議で近鉄は、平野のほか、1位に佐々木恭介、2位に梨田昌孝、4位に羽田耕一といった後の主力となる選手の指名・入団に成功している。
入団後、しばらくはこれといった成績を上げられずにいたが、1977年のシーズンにレギュラーを確保。翌1978年からは不動のレギュラーとして主に「1番・中堅手」で出場するようになった。俊足・強肩に加えてパンチ力も兼ね備えた打撃のある好選手であり、「ガッツマン」と通称されるほど闘志を前面に押し出したプレースタイルで人気を博した。チーム内でも、連日飲みに繰り出していた金村義明に鉄拳制裁を加える等、男気を見せた。
特に語り草となっているのが「執念のバックホーム」である。1979年6月26日、勝つか引き分けならば前期優勝(当時のパ・リーグは前後期制)、負けたら2位の阪急ブレーブスにも前期優勝の目があるという状況で迎えた前期最終戦、南海ホークスとの試合。1対1で迎えた8回裏、2死1、2塁の場面で、南海の打者・阪本敏三の打球はセンター前へ。打球はボテボテとなりゆっくりと転がっていったこと、またツーアウトだったこともあって、二塁ランナーの定岡智秋は当然躊躇なく本塁へ向かい、近鉄の西本幸雄監督も負け越しを覚悟したその瞬間、中堅手・平野がものすごい形相で前進、打球をつかんだらそのままバックホーム。
送球はノーバウンドで捕手・梨田昌孝のミットに届き、定岡はタッチアウト。定岡はもとより、捕球した梨田も信じられないという表情を浮かべたプレーだった。試合はそのまま引き分けとなり、近鉄は前期優勝を決めたのである。ちなみにこの試合の前日に母親が亡くなったため平野は一睡もせずにこの試合に臨んでおり、当時のマスコミはこのプレーを「涙のバックホーム」と報道した。後期は阪急が優勝したが、プレーオフでは第2戦の平野の本塁打や山口哲治の熱投などにより近鉄が球団史上初のリーグ優勝を決めている。
余談だがヘルメットには自身の背番号「9」である事や、当時人気だった銀河鉄道999にあやかってか「999」というステッカーを貼っていた。
1980年7月17日の対阪急戦(西宮球場)でサイクルヒットを記録している。また、同年のオールスターゲーム第2戦では決勝ホームランを放ち、MVPに輝いた。なお、1981年、1982年はファン投票で選ばれてオールスターに出場している。1984年5月29日には、ロッテオリオンズの投手・仁科時成が9回ツーアウトまでノーヒットノーランを続けていたが、最後の打者となるはずの平野がヒットを放って仁科の記録を打ち破ったということもあった。1985年限りで現役を引退。京都テレビ、ラジオ大阪などで野球解説者を勤めていたが、最近は公の場に姿を見せなくなっている。
近鉄の都城キャンプを取材に訪れた時、監督に就任したばかりの鈴木啓示は選手を練習に集中させる為、マスコミや評論家のグラウンドへの出入りを制限させていたが、この時はOBの平野だけでなく、同じく取材に訪れていた門田博光や谷沢健一までもが締め出されてしまい、「俺は構わないけど、あの二人は実績もあるし、同じ名球会の仲間やないか!」と自分のことより門田、谷沢両人が締め出されたことに憤慨していた。
[編集] 通算成績
- 出場試合数 1183
- 通算打数 4000
- 通算安打数 1055
- 通算二塁打数 140
- 通算三塁打数 24
- 通算本塁打数 107
- 通算打点数 423
- 通算打率 .264
- 通算得点数 551
- 通算盗塁数 106
- 通算犠打数 50
- 通算犠飛数 24
- 通算四死球数 343(うち死球17、敬遠四球5)
- 通算三振数 482