始末の極意
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始末の極意(しまつのごくい)は古典落語の演目の一つ。小噺の積み重ねと言う特殊な構成となっている為、単体で演じられることは少なく、「味噌倉」、「位牌屋」、「片棒」等、数々の「ケチ噺」のマクラに差し挟まれる事が多い。
注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています。
目次 |
[編集] あらすじ
まずは、マクラでよく使われる小噺から。
[編集] ケチと鰻屋
鰻屋の隣に住む男。飯時になると、隣の鰻屋から流れてくる鰻を焼く匂いで飯を食べていた。ところが、それを知った鰻屋が、月末に「鰻の嗅ぎ代」を請求しに乗り込んできたのだ。 「匂いは客寄せに使っているため、代金を支払え」というのがその理由。観念した男は金を持って来たが、「こっちは匂いしか使ってないんだ。そっちも音だけで我慢しろ」と鰻屋の目の前で金をチャリン……。
[編集] おぼれた親
親子が散歩をしていると、親が誤って川に落ちてしまう。息子自身は泳げないため通行人に助けを求めるが、その通行人がやけにガメツイ男だったのだ。結局、値段交渉になり、2千円では無理、3千円、4千円……と値が釣りあがっていくと、沈みかけている親父が「それ以上出すな! それ以上出すなら俺は潜る!!」
[編集] 金槌
釘を打つことになり、主が定吉に隣家から金槌を借りてくるよう命じる。ところが、帰ってきた定吉は何故か手ぶら。聞いてみると、「竹の釘を打つか、金の釘を打つか」と聞かれ、金と答えると「金と金がぶつかると減るから」と貸してくれなかったのだとか。主は、そのケチぶりにあきれつつ「それでは自分の物を使おう」
[編集] 向かいの火事
どケチの向かい側の家が火事になった。何とか火が消えたものの家は丸こげ、それを知ったどケチは、家人に言って向かいの焼け跡からオキ(種火)を取って来させようとした。当然、向かいの家は大激怒。それをどケチに話すと「何だい、こっちが火事になっても、火の粉だってやらねぇからな!!」。そんな物をもらっても仕方が無い。
[編集] 扇子の使い方
どケチ連中が集まってケチ自慢。話題が扇子に及び、一人の男が「1本の扇子を10年持たせる方法」を考案したと言い出す。どういう方法かと言うと、半分だけ広げて5年仰ぎ、もう半分で5年使うと10年持つと言うもの。すると、隣の男が「そんなんじゃ威勢が良くない。私はパッと全部広げちゃう」と言い出した。それでどうやって節約するのかと言うと、「扇子はいっぱいに広げるが、扇子ではなく私の首を動かす」
[編集] 目の節約
ある男が、目が2つあるのはもったいない、と片方のまぶたを縫い合わせてしまった。十数年後、長年片目で見ていた為か目が眼病になってしまう。ここぞとばかりに片目の縫いあわせを解くと、世間は見知らぬ人ばかりだった。
[編集] 始末の極意
そして、ケチを自認するある男が、さらなる始末=ケチの指南を請おうと、吝嗇家のもとを訪れた。吝嗇家曰く、世の中には捨てる物はなく、鉛筆の削りカスは焚きつけに使い、下駄の鼻緒の古いものは羽織の紐にできるとか。
そんな吝嗇家の頭上を見ると、何故か「ダモクレスの剣」よろしく大きな石が吊るしてある。その理由を尋ねると、「いつ落っこちてくるか、という恐怖感から涼しく居られる」と言うとんでもない返事が帰ってきた。
それでは、と、男も自分なりの食べ物についてのケチぶりを披露。3度3度の飯は、ごま塩ではなく塩で食べていたが、近頃はその塩が減るのももったいないと、梅干しの皮を朝に食べ、昼は果肉、夜は種をしゃぶり、さらに種を割って中の天神を食べて、1日1個持たせている。
すると、吝嗇家は1日に1個とは「大名並みの贅沢」で、そもそも梅干しは、眺めて出てくる唾で飯を食べる物であって、それも飽きたらざくろや夏蜜柑も使うと言う。
数々のケチな逸話を聞かされて、いよいよ始末の極意を聞き出そうとすると、裏の庭にまわるよう指示される。言われるがまま、男がはしごを松の木の枝にかけて登り、1本の枝に両手でつかまると、はしごをはずされる。怖がる男に吝嗇家の指示が続く。 まず左手をはずす。次に右手の小指、薬指、高高指と順に離すと、残るは人差し指と親指だけで枝を掴んでいる状態になってしまった。さらに指をはずせという吝嗇家に、男が「人差し指はよう離しません」と叫ぶと、
(人差し指と親指で丸を作って示しながら)「これ離さんのが極意じゃ」
[編集] もう一つの終わり方
男が帰ろうとすると、部屋が暗くて靴がどこにあるか解らない。吝嗇家にマッチを借りようとすると、「目と目の間を殴れ。火花で明るく見える」との返事。そんな事は当に見越していた男、「だと思って裸足で来た」と言うと、吝嗇家が「だと思って、部屋中の畳を裏返にしておいたんだ」
[編集] 三ボウ
寄席には様々な階層の人が聴きに来る為、噺によっては相手の逆鱗に触れてしまう可能性がある。そこで、「どんな場合にでも使える噺」として、「三ボウ」が存在する。 これは以下のそれぞれの理由から、寄席でネタにしても差し障りがないというもので、この「始末の極意」など、ケチや泥棒の登場する噺のマクラとして触れることが多い。
- 泥棒:どんなに悪く言っても、自ら名乗り出るがごとく怒鳴り込んで来る泥棒はいない
- けちん坊:わざわざ金を出してアホな噺を聴きに来る客にケチな人はいない
- つんぼう(つんぼ):聴覚障害者は落語を聴きに来ない
ただし「つんぼ」は現在は放送禁止用語とされ、手話落語なども演じられている今日では、寄席に来ているすべての客に差し障りがないとは言い難い。
[編集] 「ケチ」の呼び方
- 六日知らず:日付を勘定するときに、「一日、二日」と指を折っていく。ところが、六日目を勘定しようとすると、一度握った手を開くのが惜しくなってしまうという小噺から
- 赤縲屋(あかにしや):「あかにし」とは貝の事で、一度閉じたらてこでも開かない事に由来