太刀山峯右エ門
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太刀山 峯右衞門(たちやま みねえもん、1877年8月15日 - 1941年4月3日)は、大相撲の第22代横綱(在位明治44年(1911年)6月~大正7年(1918年)1月)。突っ張りで一時代を築いた。
元々は茶葉の手揉みをしていて持前の怪力により針のごとく鋭い優良品を生み出し品評会では必ず優勝したという。
兵役検査での優秀な成績が評判になり、板垣退助、内務大臣西郷従道、さらには地元富山県知事らのすすめを受けて友綱部屋へ入門。明治33年(1900年)5月幕下付出として初土俵を踏む。四股名は地元の立山にちなみ、また常陸山に迫れという願いを込めて板垣退助により太刀山と命名された。
下半身の硬さに難があり、四つ相撲には向かず、徹底して突き押しを磨いた。これが功を奏して順調に強みを増したがその強さゆえに一門には太刀山と稽古できる力士が少なく師匠は敵将常陸山に「太刀山に稽古をつけて欲しい」と頼んだ所快諾され、駒ヶ嶽とともに稽古をつけてもらった。その威力は、誰も二突きとは耐えられないという意味から、一突き半→一月半で、「四十五日の鉄砲」と恐れられた。大関時代の明治43年(1910年)6月には2日目に小結小常陸と対戦した時など立合の1発で桟敷まで突き飛ばし(この時足で桟敷を突き破ってしまった小常陸は負傷により翌日から休場)8日目に平幕の八嶌山との対戦では相手が怖がって太刀山が手を出す前に土俵から逃げ出した(太刀山は前に歩いたのみ、当時決まり手はにらみ出しと発表された)などその強さを物語る逸話は多い。ある時は稽古場に当時の幕内力士全員を呼んで土俵の内側に足で1m程の丸を描き「ここから儂を押し出したら賞金10円やるぞ」(大正時代の10円は今なら数十万円にはなるか)と言ったが誰にもできなかったという。
※にらみ出しについては真偽の程が疑わしい。 「1910年(明治四十三年)夏場所では、八嶋山が、この突っ張りを恐れるあまり、一度も体が触れないまま自ら土俵を割り、「にらみ出し」とはやされた。」(1993.09.06 朝日新聞朝刊) という記事が掲載されていたが、当時の取組内容が記載されている朝日・読売・毎日(東京日日)新聞によれば、決まり手は「よりきり」となっている。八島山(島が正しい)との取り組みは明治44年(1911年)2月に開催された春場所でも実現したが、その時の決まり手も「つつきだし」。ちなみに「決まり手」として相撲協会が認めるようになったのは昭和30年(1955年)から。それ以前は新聞などのメディアが勝手に名づけているものと思われる。
一方、当時は常陸山に代表される、がっぷり四つでしのぎあう相撲が全盛であり、太刀山の瞬間で勝負をつける取り口は面白みに欠けると批判された。しかし、「梅・常陸時代」と、栃木山のスピード感ある近代相撲との橋渡しをした存在として、その功績は大きい。
始めの頃は突っ張っても常陸山にうまく返されて負けていたが前頭筆頭だった明治37年5月常陸山休場の隙をついて8勝1敗、現在で言う初優勝、明治38年(1905年)5月より小結を飛び越して関脇、明治40年(1907年)5月初めて常陸山に勝ちこの場所8勝1敗と2度目の優勝相当成績を挙げる。
駒ヶ嶽とは関取になる前から並び称されたが大関争いとなると太刀山の陣営には横綱は大砲と梅ヶ谷、大関も横綱級の実力者國見山と荒岩がいて上が詰まり逆に相手陣営に大関がいないことから先を越された。大砲と荒岩の引退により明治42年(1909年)6月場所、国技館の完成とともに大関に昇進すると4場所で横綱免許を獲得、太刀山が大関の頃までは対抗できた駒ヶ嶽もこうなるともはや相手にならなくなっていたらしい。
大正5年(1916年)5月場所8日目に栃木山に敗れるまで56連勝を記録。これは引き分けや預りを挟んでのものとしては史上4位に位置する。さらにその前にも西ノ海に敗れるまで43連勝を記録しており、これがなければちょうど100連勝だったことになる。現在のものよりも小さい13尺土俵(現在は15尺)だったためもあるが、全勝を5度記録するなど、突っ張りを得意とした力士としては、その安定感は特筆される。師匠艫綱は「古今最強の力士は幕末の陣幕、そして我が太刀山」と言ったらしい。後に双葉山が全勝8回を記録するまでは全勝最多記録保持者だった。
双輪の綱を締め両手を広げてせりあがる、現在で言う「不知火型土俵入り」の完成者とも言われているが本人は「横綱雲竜の型」と言っていたらしい。
大正6年(1917年)1月場所千秋楽、この場所綱取りの大関大錦卯一郎との全勝対決に敗れる。その後稽古で脚に負傷、これが思わしくなく大正7年(1918年)1月引退。引退後年寄東関を襲名し独立したが勝負検査役選挙での落選を機に弟子を髙砂(元大関朝潮)に譲って大正8年(1919年)5月相撲協会を去った。昭和12年(1937年)2月、還暦を記念して、後援者の主催でかつての弟子から露払には元太刀ノ海の木村瀬平、太刀持には元大関太刀光の鳴戸を従えて赤い綱をしめて土俵入りを披露、還暦土俵入りの元祖とされている。
優勝は国技館開館後9回、それ以前にも優勝に相当する成績が2回ある。
その恐るべき怪力で400kgの砲弾も片手で持ち上げ振り回せる程のものだったという。この怪力を活かし相手を捕まえて背中から落とす呼び戻しは仏壇返しの異名で突っ張りとともに恐れられた。
当時の力士には珍しく食事などの面から健康に気を使う人だったらしいが還暦の土俵入りができたのはこれが功を奏したためとも思われる。晩年は大阪横綱の若嶌や、年寄立浪になった緑嶌と良い囲碁仲間で、茶飲み話に花が咲いて興が乗ると、立浪の自宅の中庭で相撲を取ることもあったという。ある時、東西合同相撲で若島と引き分けた話が出、是非あの時の決着をつけようとお互い還暦も過ぎて立ち合ったが、四つに組んだ後微動だにせず、「分けじゃ、分けじゃ、このままでええ」と呵々大笑しあった。