駒ヶ嶽國力
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駒ヶ嶽 國力(こまがたけ くにりき、1880年(明治13年)12月13日 - 1914年(大正3年)4月11日)は大相撲の力士。最高位は大関。
1880年(明治13年)12月13日宮城県に生まれる。本名菊地國力。
1897年(明治30年)に小錦、朝汐の一行が巡業に来た際に井筒親方に勧誘されて入門、以降巡業に同行した。1898年(明治31年)1月初土俵。四股名はこの時から駒ヶ嶽だった。順調な出世で1899年(明治32年)1月に序二段で、1900年(明治33年)5月に三段目で全勝。1902年(明治35年)1月新十両、1903年(明治36年)5月新入幕。三段目時代から並び称された太刀山との対戦は常に好取組として人気があった。1905年(明治38年)1月小結、5月関脇。太刀山と大関を争ったが当時太刀山の陣営には横綱級の実力を持つ大関荒岩と國見山がいて横綱も大砲と梅ヶ谷がいて上がつかえたのに対し駒ヶ嶽の陣営には大関がいない(荒岩か國見山が代わりに大関を務めたことがあった)ため1907年(明治40年)1月大関に昇進した。常陸山は駒ヶ嶽を特にかわいがり熱心に稽古をつけていた。
横綱昇進を期待され果たした暁には止め名であるはずの谷風を襲名するともいわれた。太刀山が大関の頃までは立派に好敵手を務めることができたが横綱を先取されてからはもはや勝負にならず太刀山に「駒関のほうが綱姿は似合うはずだ、次は駒関の番だよ」と言われたにも関わらず綱が遠のいた。
「鯨飲馬食」の言葉に表される大食漢であり大酒飲みで実に日本酒6升を飲んだ。しかし晩年は酒の飲みすぎで体を壊して力が落ち負けると大酒を飲む、飲んでは悪化するという具合で負越も記録した。そしてとうとう1914年(大正3年)4月11日茨城県での巡業の際に亡くなった。立ち寄った酒屋でどぶろくを飲みそのまま太陽がガンガン当たる荷車の上で寢ていたのが悪く酒が胃の中で醗酵して毒が作られこれが全身に回り腸穿孔、脳出血、心臓麻痺を起こしてしまった。かつて並び証された太刀山が当時の力士には珍しい節食で還暦土俵入りまでしたのとは対照的だった。
懐の深さを活かした荒技が得意で小兵の名関脇玉椿に強く「玉転がし」と呼ばれていた。逆に小結緑嶌には分が悪かった。
[編集] 成績
- 幕内成績:105勝41敗22分7預45休
- 幕内在位:22場所