大石武一
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大石 武一(おおいし ぶいち、1909年6月19日 - 2003年10月19日)は、日本の政治家、医師(医学博士)。東北大学医学部助教授を経て、衆議院議員、参議院議員。初代環境庁長官、農林大臣を歴任する。環境庁長官在任中は、「正義の味方、月光仮面」と親しまれた。民主党参議院議員の大石正光は長男。
宮城県仙台市出身。立憲政友会、自由党、民主自由党で衆議院議員を務めた大石倫治の長男として生まれる。少年時代から動植物に深い関心を持ち、大学で植物学を専攻しようとしたが、父の奨めに従い医学の道に進み、1935年に東北帝国大学医学部を卒業、1940年に東北帝国大学大学院医学博士課程を修了する。その後医師として、東北帝国大学(戦後、東北大学)医学部、国立仙台病院などに勤務。
1948年に父が死去し、遺言に従い亡父の跡を継いで、同年の総選挙で初当選。以降、通算10回当選。自由民主党では河野一郎派、河野の死後は中曽根康弘派に所属する。中曽根派では桜内義雄、稲葉修、山中貞則とともに「四天王」と呼ばれた。河野、中曽根は憲法改正を主張するなど、いわゆるタカ派とみられていたが、大石は、特に自然保護、軍縮、平和運動に積極的にかかわり、ハト派議員として知られた。
1971年に第3次佐藤内閣改造内閣で環境庁長官として入閣。同年7月1日に環境庁が設立され、山中貞則総理府総務長官が環境庁長官を兼務していたが、設立4日目の7月5日に内閣改造が行われ大石の専任となったため、実質、大石が初代環境庁長官と目される。環境庁長官となった大石は四日市ぜんそくの対策にあたるとともに、観光客増加によって自動車道路の建設が計画されていた尾瀬を長蔵小屋の平野長靖の工事中止の直訴を受けて視察し、建設促進派の田中角栄通産相、福島、新潟、群馬の三県知事の反対もあったが建設を中止した。水俣病の患者認定基準作成においては、「疑わしきは認定する」との方針を打ち出し幅広い患者の救済を決めた。この他、野鳥の保護など環境行政の基礎を固め、縦横無尽の活躍ぶりから「正義の味方、月光仮面」と親しまれた。
1976年、三木内閣改造内閣で農林水産大臣として再度入閣した。しかし、同年末の第34回衆議院議員総選挙では現役大臣ながら落選を喫する。翌1977年、参議院に転じるが、1983年に自民党を離党し、新自由クラブに入党。同年の第13回参議院議員通常選挙で新自由クラブは社会民主連合と新自由クラブ・民主連合を結成し選挙に臨み、大石は比例代表名簿で2位であったが落選し、政界を引退する。
議員在任中は自然保護議員連盟会長のほか、国際軍縮促進議員連盟会長として軍縮、平和運動を議員外交で繰り広げ、政界引退後は馬事畜産会館館長、全国畜産農業協同組合連合会会長理事、全国乗馬クラブ振興協会会長、医家芸術クラブ理事長、宮城県畜産農業協同組合連合会会長理事などの公職を務めたほか、緑の地球防衛基金会長、東京都ごみ焼却工場建設反対署名運動、尾瀬を守る懇話会代表、環境政党「みどりといのちのネットワーク」推薦人など、市民運動の第一線に立ち続けた。また、岐阜県長良川河口堰建設や熊本県川辺川ダム問題に関わり、環境問題や公共事業の問題に積極的に関与した。
2003年10月19日、心不全のため東京都目黒区の病院で死去。94歳。
[編集] 著書
- 『尾瀬までの道』
[編集] 外部リンク
- 百年の逸材(宮城県仙台第二高等学校 同窓会ホームページ内)
- 初代環境庁長官・大石武一(1)「日本の自然を守ってやろう」(草野洋 環境ジャーナル)
- 初代環境庁長官・大石武一(2)「“四日市ぜんそく”での失敗談」(草野洋 環境ジャーナル)
- 初代環境庁長官・大石武一(3)「三県知事“缶詰め”で「尾瀬」の県道中止」(草野洋 環境ジャーナル)
- 初代環境庁長官・大石武一(4)「“石原慎太郎に崩された”方針」(草野洋 環境ジャーナル)
- 環境庁長官
- 1971 - 1972
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- 先代:
- 山中貞則
- 次代:
- 小山長規