丹羽雄哉
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生年月日 | 1944年4月20日 |
出身地 | 茨城県小美玉市 |
出身大学 | 慶應義塾大学法学部 |
前職 | 読売新聞記者 代議士秘書 |
役職 | 元・厚生大臣 |
当選回数 | 10回 |
世襲の有無 | 二世 父・丹羽喬四郎 |
選挙区 | 茨城6区 |
所属党派 | 自由民主党(丹羽・古賀派) |
党の役職 | 総務会長 |
会館号室 | 衆・第二議員会館211号室 |
ウェブサイト | http://www.niwayuya.net/ |
丹羽 雄哉(にわ ゆうや、1944年4月20日 -)は、昭和・平成期の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(当選10回)。父は衆議院議員の丹羽喬四郎。茨城県小美玉市(旧玉里村)出身。
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[編集] 略歴
麻布中学校・高等学校、慶應義塾大学法学部卒業。読売新聞記者を経て、大平正芳首相の秘書となる。1979年に、父の死を受けて衆議院選挙に出馬し初当選。以来10回連続当選。
1985年12月、中曽根内閣で厚生政務次官、1992年12月の宮澤改造内閣で厚生大臣として初入閣。1999年10月、第二次小渕改造内閣でも厚生大臣に再入閣し、森内閣でも留任。
いわゆる「厚生族」の代表格で、診療報酬改定など各種社会保障問題への影響力が極めて大きい。
初当選以来宏池会に所属していたが、2000年11月の加藤の乱では加藤に同調せず、以後堀内派に所属(加藤の乱の際は加藤の政権構想や倒閣のプラン作成を担っていたとされた。丹羽の離脱は古賀の離脱と共に、親加藤派に大きな影響力を与えた)、堀内派会長代行を務める。
2005年7月5日、堀内光雄会長が郵政民営化関連法案の衆院本会議採決をめぐり派閥会長辞任を表明。その後は会長ポストを空席とし、古賀誠事務総長との「丹羽-古賀」体制で派閥運営していくことになったが、平成研究会(旧橋本派)が津島派へ改称するなど党内各派の世代交代が進む中、これ以上派閥会長不在の状態が続くのは好ましくないとして、「旧堀内派」からの名称変更問題が浮上。古賀氏が会長就任を狙ったものの、「古賀派」を嫌う勢力が「派閥を出て行く」などと反発。調整の結果、2006年2月、古賀、丹羽両氏が妥協して共同代表制を敷くことで落ち着いた。
2006年9月の自民党総裁選挙で派内を安倍晋三支持で一本化したことが評価され、安倍新内閣には派から4人の閣僚を送り込むとともに、自らは安倍総裁の下で総務会長に就任。これに伴い派閥を離れた直後、派内にて会長職を古賀に一本化する人事が承認され、派内の丹羽系議員と古賀系議員との関係がきしみ始めたと見る動きがある。
また、同年12月の茨城県議選期間中、地元、茨城県石岡市の自民現職県議である、戸井田和夫の応援に入り、川口順子元外務大臣なども応援に入ったが、無所属の新人、鈴木せつ子に敗北した。
[編集] 著書
- 『美しく老いるために―日本の医療・年金・福祉への提言』 (コープ出版、1994年)
- 『生きるために―医療が変わる』 (日経メディカル開発、1998年)
[編集] 関連項目
- 渡邉恒雄(読売新聞政治部時代の上司)