夏侯楙
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夏侯楙(かこうぼう、184年?-256年?)は、魏の武将。字は子林。演義では夏侯淵の子で夏侯惇の猶子となっている。だが、正史では、夏侯惇の次子と記されてある。兄に夏侯充がいる。
[編集] 略要
[編集] 生涯
夏侯楙自身は政治能力も軍事能力も無い無能な人物であったが、父が曹操時代からの功臣であったため、曹操の娘・清河長公主を娶ることを許され、重用された。初めは侍中尚書に封じられた。 また、“いとこ”の曹丕と仲が良かったため、彼が皇位に即位すると、安西鎮東将軍・持節に任じられ、死んだ夏侯淵の爵位を受け継ぐことも許された。 しかし、長安の守備を任されたものの、その(無能さの)件で言上する者があり、洛陽に呼び戻された。
夏侯楙は吝嗇で金儲けが大好きで、かつ無類の女たらしで、曹操の娘以外にも多くの妾を娶った。そのため清河長公主とは仲が悪かったと言われている。後に、これが原因で妻と弟の夏侯子臧と夏侯子江によって曹叡に讒言され、逮捕されてしまった。曹叡も“おじ”である夏侯楙自身がなんの能力も無いことも知っていれば、迂闊に彼に軍を委ねたばかりに蜀漢の諸葛亮に大敗したことも知っていた。それで彼を処刑しようとしたが、曹叡臣下である段黙が突如「子林さまは太祖武帝の女婿で、惇将軍のお子ですから…」と堂々とした弁護を行ったため、処刑は免れた。没年は詳しくはわかっていないが、司馬昭の時代までは生き延びたといわれている。
ある説では、夏侯佐は彼の庶子とされる。
[編集] 演義での夏侯楙
演義では何の能力も無い暗愚の武将として描かれている。正史と同様に金儲けが趣味であったとされ、その無能で気位の高い所を敵に様々に利用される役回りが多い。 魏延から「臆病で策無しの男」と酷評された点もあってか、227年に諸葛亮が北伐を開始した時、自ら進んで総大将となるが、これと戦っていいようにあしらわれ、敵将の王平に捕らえられる。捕虜になっている最中も諸葛亮の策にかかり姜維を蜀に寝返らせるきっかけを作っている。最後には馬遵と共に羌族の土地へ逃げて、それ以降は魏に帰らなかったとされる。
また、司馬懿が曹叡に、夏侯淵の息子達(覇・威・和・恵)を従軍させたいと言った時に、曹叡が「その者達は胡(えびす、この際は羌を差す)に逃亡してしまい、戻らぬ夏侯楙将軍と比べてどうか(彼奴よりはマシなんだろうな?)」という下りがあったとされるが、実際のところは(正史の場合)全く不詳である。