堤康次郎
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堤 康次郎(つつみ やすじろう、1889年3月7日 - 1964年4月26日)は、日本の実業家、西武グループ(旧コクド及び旧セゾン)の創業者。また政治家で第44代衆議院議長を務めた。(堤が事業を始めたのは、政治資金を作るためであったが、それが日本有数の企業グループにまで発展した。)日米関係重視、道路建設の重要性にいち早く注目するなど、その後の戦後日本政治の主流思想の嚆矢だということも出来る。
実弾(現金)を打ちまくることから、「ピストル堤」と揶揄されたこともあった(実際にピストルで撃たれたこともあり、これには諸説ある。堤本人は、自分が撃たれたのであり、撃つほうでないから「ピストル堤」というあだ名はおかしい、と言っている。)。五島慶太(強盗慶太)との東急対西武戦争(箱根山戦争)でライバルとも言われた。1958年滋賀県大津市初の名誉市民となる。身長180センチを超える巨漢であり、柔道の有段者(6段)であった。正三位勲一等旭日大綬章。
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[編集] 経歴
1889年3月7日、滋賀県愛知郡八木庄村(現・愛荘町(旧・秦荘町))で農家の子として生まれる。農家といってもほんの僅かな土地しかなかったようだ。いわゆる五反百姓であった。一説によると堤家の先祖は岐阜県の出身で江戸時代末期に移住してきたという。父親は猶次郎、母親はみを。5歳のとき、父親が腸チフスで急死した。母親は実家に戻され、妹・ふさとともに祖父・清左衛門、祖母・キリの手で育てられる。15歳ころ、大阪で開かれた博覧会で目にした化学肥料を地元で売り始めたのが、商売の原点としている。
祖父母の死をきっかけに、1909年、20歳で上京。早稲田大学政治経済学部に入学する。本人の自伝によれば故郷の「田地を担保に入れて5000円の金をこしらえ」て上京した。この金を元手に株取引を始め、郵便局や鉄工所の経営、石炭の掘削権の購入、真珠の養殖、造船などを幅広く行っていった。しかし、どれも失敗とは本人の弁。30代になるまで、成功しなかった。この多くの失敗をきっかけに、事業は、「もうけよう」としてもだめ、「感謝と奉仕」をこそ、本義とすべきと悟る。
長野県の沓掛(現在の中軽井沢)で別荘開発の話を聞きつけて、1915年に現地に乗り込む。 銀行から借りた15,000円と新聞紙で作った見せ掛けの30,000円を見せて、沓掛の村有地買収を提案。隣の軽井沢が欧米の宣教師達の別荘地として発展していくのに危機感を抱いていた村は、50軒の別荘を売ることを条件に堤の提案を受け入れる。堤は当時の妻の川崎文の実家などから買収金を工面する。 1918年、千ヶ滝遊園地株式会社を設立(資本金25万円)。無名の自分の名前では株は売れないと判断した彼は、社長に財界の大物であった藤田謙一を招聘。沓掛の土地を元に、軽井沢開発に乗り出す。軽井沢沓掛の別荘地の分譲を始める。一軒500円で簡易別荘として販売。
1920年、千ヶ滝遊園地を清算(計画倒産説あり)し、箱根土地株式会社(後のコクド、現在は消滅)を設立する。資本金2000万円(三菱商事の資本金が当時1500万円)。
1924年に、滋賀県から衆議院議員に立候補した。対立候補は旧彦根藩の家老の家柄である堀部久太郎。かなりの差で当選を果たす。政治家としては立憲民政党に所属した。
関東大震災以降は、東京郊外の土地に目を向け始める。大泉や小平、国立の学園都市の開発に乗り出す。1925年には、国立に東京商科大学(現一橋大学)の誘致に成功している。自身が創設者となり、1926年、国立学園小学校を開設。
1923年、駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)を買収。1925年には、小田原電気鉄道(現・箱根登山鉄道)の株式過半数を収めている。1928年には、多摩湖鉄道を自身の手で開業させている。1940年には、浅野財閥系から武蔵野鉄道の株式を購入し、多摩湖鉄道をこれに合併させた。武蔵野鉄道は、戦時中の陸上交通事業調整法に基づき西武農業鉄道を経て西武鉄道となった。余談であるが西武線の高田馬場駅は、彼の母校愛から設置されたものである。
太平洋戦争中も、B29の空襲の中、自宅地下壕に電話線を何本も引いていた。その電話口で、常に土地を買いつづけていた。戦後も、皇籍剥奪で経済的に行き詰まった旧宮家の都心の土地を次々と買収。旧華族の生活の面倒を見たとも言われる。
また大戦中、大戦後にかけて、都内の糞尿処理対策や流木対策に西武グループを挙げて対処した。
1953年5月28日~1954年12月11日の間、衆議院議長を務める。それまで属していた改進党を離党し、山下春江らと新党同志会を結成保守合同を画策するなどした。
晩年は、軽井沢での冬季オリンピック開催に執着する。雪の降らない軽井沢のスキー場代替地として、万座に用地を確保したりしている。この活動が、1998年の長野オリンピック開催へつながったと見る向きもある。
1964年4月24日に東京駅のホームで倒れる。4月26日に心筋梗塞で死亡。東京オリンピックのために建設を計画した東京プリンスホテルの完成を見ることはできなかった。
[編集] 家庭
女性関係も豪快そのものであり、女中、社員、部下の妻、華族の娘、息子の妻、であろうと「これは」と思う相手を片っぱしから手中にしていったといわれている。そういう女性の子として生まれ、一族の中に入っていない子供たちの数は把握できていない。公式には5人の女性との間に5男2女の子供をもうけたとしている。20歳の時西沢コト(滋賀の堤家の縁戚)と結婚、長女淑子(夫・小島正治郎西武鉄道社長)が生まれた。
上京後、岩崎ソノ(未入籍、康次郎が学生のころ経営していた3等郵便局の事務員)との間に長男清(元・近江鉄道社長、後に廃嫡)が生まれた。次に川崎文(千葉の風祭家の長女として生まれ母方の川崎家の養女となる。両家とも士族)と結婚。子供はできなかった。青山操との間に、次男清二(セゾン文化財団理事長、共産党入党を咎められ遠ざけられる)、次女邦子(エッセイスト)を儲ける。その後、青山と結婚するが、新潟県選出の石塚三郎元衆院議員の娘・恒子(未入籍)との間に、三男義明と四男康弘(豊島園前社長)、五男猶二(東京テアトル取締役、元プリンスホテル社長)が生まれる。結局は、義明にその跡を継がせている。
[編集] 系譜
堤氏
清左衛門―猶次郎―康次郎―┌淑子 ├清 ├清二 ├邦子 ├義明 ├康弘 └猶二
[編集] 著作
- 「叱る」
- 「太平洋の架け橋」
- 「苦闘30年」
[編集] 関連項目
[編集] 参考資料
- 猪瀬直樹 『ミカドの肖像』 ISBN 4093942358
- 辻井喬(堤清二)『彷徨の季節の中で』(新潮社1969)
- 辻井喬(堤清二)『父の肖像』(新潮社2004)
- 上林国雄「わが堤一族血の秘密」『文藝春秋』65(10)pp.156-176