堀直寄
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堀 直寄(ほり なおより、1577年(天正5年) - 1639年7月29日(寛永16年6月29日))は、江戸時代の堀氏の大名で堀直政の三男。兄に堀直清(直次)、弟に堀直重、堀直之ら。
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[編集] 豊臣秀吉に仕える
天正18年(1590年)、堀秀政が没し、嫡男の秀治が幼かったため、家督相続が遅々として進まなかった。家老の直政は直寄を使者として秀吉に直訴した。「先臣秀政、軍に死し候えば、その子秀治、幼年なりと申せ、よろしく嗣と為し給ふべし、若し立つことを得ざらんには、これ使臣の罪なり、」と口上。直寄このとき13歳。秀吉は秀治の相続を認め、直寄を自らの小姓にし、従五位下、丹後守に叙任した。
慶長3年(1598年)、堀家が越前北ノ庄から越後へ転封となる。直寄は秀吉に直訴し、「父監物(直政)事、老齢にして此の度、北国へ罷越し、自然彼の国にて一揆など起らば、落着くことも成り難く、是れのみ心元なく、何卒三年の御暇を賜りたし、」と申し、秀吉も感心し、「丹後(直寄)の申し様奇特なり、早々に久太郎(秀治)のあとより下るべし、」といい、増田長盛を召し、「丹後守は器量あるものなり、父兄と共に国政を聞くべし」といって魚沼郡坂戸城に2万石を与えた。 越後、会津では上杉景勝が不穏な動きをしており、直政は家康に情勢を報告。家康が上杉討伐を決めると、堀家にも「津川口より会津へ攻め入るべし」との指示が来る。一族の合議の際、直寄は太閤殿下への御恩に報いるべき、と上杉、石田三成と組むことを主張した。結局直政が家康方に付くことを主張し、全員の合意が得られたが、直寄は秀吉の小姓を務めているから豊臣への思いは無理なからむことだったろう。
[編集] 上杉遺民一揆
慶長五年(1600年)8月1日、奥広瀬に上杉遺民一揆が勃発。直寄は下倉城の小倉主膳を救援して一揆を鎮圧。家康、秀忠から感状を授与される。9月1日、家康より書状が来る。石田三成らが美濃の大垣に集結しているので、自分はそちらへ出馬する。会津の上杉景勝が坂戸方面へ侵攻するようなら、真田信幸、本多康重、平岩親吉、牧野康成に援兵を出すよう命じてあるから、これら諸将と協力して城を堅守するように、というものであった。9月8日、直寄は父直政、兄直清と共に三条から津川に向けて兵を出した。津川に向かう途中、一揆の兵が高所に登り、三段に構え、深田を前にして備えていた。これを見て直寄は家臣に「敵が深田を前にして、高きところに備えたれば、我れよりかかって勝負をいたせば、敗北は必定なり、密かに脇道より敵の横合いに出で、仕掛けて切り崩さば、勝利は我にあらん、」と身近な兵10人ほどで、崖陰に廻り、敵の右の傍より迫り、鉄砲を撃ちかけ、敵を切り崩し、これを平定した。
[編集] 長岡城築城を計画
慶長7年(1602年)、蔵王堂城主の堀親良は家老の直政と不和になり、国政を顧みない兄秀治にも不満があり出奔した。親良は秀治の次男鶴千代を自分の養子として蔵王堂城主にした。直寄は鶴千代を補佐し、鶴千代が早世すると坂戸と蔵王堂を兼務し五万石を領していた。蔵王堂城は長尾為景の弟為重が築城した城だったが、信濃川の側で年々浸食が進んでいたので、上流の大島庄平潟原に築城の計画を立てる。この地が長岡と呼ばれるようになる。語源には、神田表町千手の地が遠くから見ると長い丘のように見えるから(『長岡市史』)、長岡京に似ているから(『越後往古城主付』)、そしてこの地を御館の乱のとき本荘清七郎の家臣神保隠岐守と長岡縫殿助(ぬいのすけ)が領していて、戦に敗れ神保は会津へ逃亡、長岡は討死した、という記述が『越後治乱記』にあり、この長岡縫殿助の名から付いたという説がある。長岡が文書に出てくるのは慶長10年(1605年)に蔵王堂渡し守与助に、長岡渡しに場所を変更する、今まで通りの給米で雇う旨の文書が、鶴千代の老臣堀甲斐守から出されたとき。これ以後、長岡の名が文書に多く出てくる。
慶長13年(1608年)、父の直政が死去した後、兄の直清が家督を継いだのを不満に思って対立する。そして、慶長15年(1610年)直清が僧侶を殺害した事件を徳川家康に訴えた。このため、直清と忠俊は改易され、自身も1万石減封された。秀治と親良、直清と直寄の兄弟相克が引き金になり、家康に堀家除封の口実を与えてしまった。直寄は信州飯山4万石に転封され、長岡築城は中断。松平忠輝の家臣山田勝重が蔵王堂城主になるが、高田城築城のため、任地を顧みる暇はなかったようである。
[編集] 家康への忠勤、大阪の役
飯山4万石を領してからは、駿府にいて家康に仕えた。慶長16年(1611年)、駿府城火災のさい、いち早く駆けつけ、宝物金銀を運び出し、消火にあたり、消火の器物に自分の名前を書いておき、後からきた人々はみな直寄の名の入った器を使ったので、このときの手柄は直寄のものとなり、美濃多芸郡に1万石加増された。
大坂夏の陣に弟の直之とともに参陣。大和口の軍将水野勝成の手に属し、一番に直寄、二番に松倉重政とした。5月5日、水野、松倉らが田尻越えを経て河内へ入ったという知らせを聞き、里人に近道を尋ねた。古老がいうには「亀瀬より入らば道は近し、されどその昔、守屋大臣、此の道を通り河内へ往きて、戦ひに敗れし故、聖徳太子の御世より、赴軍の者、この道を戒められて、石に亀を刻み、その印とせられたが、刻みし亀は、その後首を隠せりにより、首なき亀を見て、戦に利なきと戒めて、この道を通らずと云う、」直寄、之を聞いて、「我いま、人に先立ってこの道を進み、敵に勝つときは千年の禁忌を破りて、愚者の迷を解かん、守屋大臣は戦いに敗れ死す、我は勝ちて生きん、若し戦に利なくして、死なば、末世の勇者の戒めとすべし、」と亀瀬を越え、河内の国府へ駆けつけ、しばらくすると、水野、松倉らも到着した。
夜も更けて、水野勝成より、「敵寄せ来たると見えて、松明多く見ゆ、あなどるべからず、」と諸将に伝言があった。直寄之を聞きて、「勝成は物に馴れたると聞きしに、巧者とも思はれず、寄せ来たる敵、何んぞ松明を多く燈さんや、敵にはあらず」というところに、再び伝令がきて、「松明皆消えたり、敵にはあらず」告げると、直寄は「これぞまさしく敵なり、なに心なく松明をとぼしたるが、巧者あって消させたり」といった。これが敵将後藤基次の部隊であった。6日未明、片山・道明寺での戦いで、松倉重政の崩れるのを助け、横から討って出て、基次の兵が崩れたところを一気に押し切った。この激戦で後藤基次、薄田隼人らの名将は戦死した。7日、天王寺の戦い、8日、大坂城は陥落した。
元和2年(1616年)4月1日、家康は病重く、寝殿に直寄を召して、大阪の軍功、平時の武備を称美せられ、「我れ、死せる後に、若し国家擾乱せば、藤堂高虎を将軍の一陣とし、井伊直孝を二陣とし、汝は両陣の間にたむろし、其の横を打ってこれを破るべし、必ず忠義に懈るべからず」と遺言した。
[編集] 長岡8万石、村上10万石
元和2年、松平忠輝が改易となり、10月、直寄は3万石加増で、再び長岡の領主となった。築城と共に、城下町の整備も行なう。外港の新潟町(現在の新潟市古町付近)は交易や、人口増加のことを考え、諸税を免除し、以後の発展の礎を築いた。
元和4年(1618年)、2万石の加増を受け、村上10万石に転封。長岡城は完工目前で牧野忠成に引き継がれた。牧野氏は幕府の要職にあり、寛永7年(1630年)まで長岡に入国できなかったこともあり、明暦3年(1657年)の改正まで「しきたり」と称し「堀丹後守御証文通り」として、直寄の制度をそのまま踏襲し、いささかの不便もきたさなかったという。
直寄が村上に入部のさい、家康より百万石の禄を与えるという御墨付きを所有していた。これを示して、老中に百万石の請求をしたところ、老中は困り果てたが、百万石の「石」の字に虫食いがあるのを見つけ、「之は百万石に非ずして百万両なり、依って佐渡金山を向う三ヶ年取らすべし」と下命して早々に立ち去った。怒った直寄はこの金で、村上城を増改築し、士分の増員を行い、江戸の上屋敷に凌雲院を建て、不忍池を作った。のちに居城の改築と士分の増員について幕府の詰問を受けた。 また村上藩主として村上城下町の整備に携わり、現在の市街地の基礎を築いた。
[編集] 江戸での晩年
直寄の屋敷には秀忠、家光が訪ねて来ている。「寛永六年十二月二十六日台徳院殿(秀忠)直寄が邸に御渡りありて、助国の御刀貞宗の御脇差をよび黄金三百両を賜ふ、七年二月十三日大猷院殿(家光)直寄が宅に渡らせたまふのときも、助光の御腰物黄金二百両を恩賜せらる、」(『寛政重修諸家譜』)
元和年代、上野には直寄の屋敷のほかに藤堂和泉守、津軽越中守の屋敷があった。津軽家の『常福寺御由緒略記』によると、「上野は御家(津軽家)、並びに藤堂家、堀家の屋敷と申し候ところ、徳川家にて、御廟地と成され候節、替地を以って、御取上げと相成候ところ、御家の寺院、津梁院、藤堂家の寒松院、堀家の凌雲院は格別に対遇なさるる趣、」とある。寛永2年に天海の発意で、寛永寺が草創され、凌雲院は上野最大の塔頭であった。直寄は他にも祗園堂、大仏殿なども寄進した。
寛永4年(1627年)沢庵宗膨が罪に問われた際、天海僧正、柳生宗矩とともに赦免に奔走した。沢庵和尚は直寄の駒込の別邸に二年間世話になった。寛永8年(1631年)、戦死者慰霊のため上野寛永寺に上野大仏(釈迦如来坐像)を建立。 寛永13年(1636年)、60歳で隠居し、嫡男の直次に家督を譲り、自らは「鉄団」と号した。寛永16年(1639年)病のため、駒込の別邸で亡くなる。享年63。友人の沢庵禅師により、「凌雲院殿前丹州太守鉄団宗釘大居士」と追号を受けた。
[編集] 参考文献
- 『堀家の歴史』 堀直敬著 堀家の歴史研究会 1967
- 『寛政重修諸家譜』巻第七百六十六