堀親良
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
堀 親良(ほり ちかよし、1580年(天正8年) - 1637年7月5日(寛永14年5月13日))は、安土桃山時代、江戸時代の大名。堀秀政の次男で、堀秀治の弟。母は喜多島和泉守良滋の娘。字は吉千代、のち孫太郎、名は秀成、秀家、親良と改めた。
父・秀政や兄・秀治と共に豊臣秀吉に仕える。初陣の小田原の役のとき十一才、父の死後越前国に二万石を領し、天正19年(1591)従五位下、美作守に叙任され、秀吉より、羽柴氏と秀家の名を賜る。秀治と共に越後国に転封となり、蔵王堂城に四万石を領し、うち一万石を家老の近藤重勝に分与した。秀吉が亡くなると、遺品として「助真の刀」を拝領。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは兄と共に東軍に与する。「上杉景勝本国にありなから逆謀をくはだて、斎藤・柿崎・丸田等を軍長とし、一揆の党をひきひて会津のさかひ下田村に楯籠、このとき親良みつから軍士をあいしたかへ、いとみたたかひて首級を得、すなはち、上意に達す、」(『寛永諸家系図伝』)、この功により、家康、秀忠から感状を賜る。感状には羽柴美作守殿とあり、このころはまだ羽柴を称していた。戦後、徳川家康から所領を安堵された。
しかし慶長7年(1602年)同族の堀直政と不和になって対立し、病と称し京都伏見にあった亡父の屋敷に隠遁した。このとき、家督を嗣子の堀鶴千代に譲っている。譜代の家臣を連れて京、大阪を経て紀州に入り、妻の生家浅野家に寄り、浅野幸長に身の処置について相談、駿府の家康に拝謁して、命により本多正純の家臣となった。4年勤めた後、慶長11年(1606年)、下野国真岡に一万一千石を賜り、江戸で秀忠に拝謁する。大阪の役では土井利勝の旗下で奮戦。この頃、羽柴氏を廃し、堀氏へ戻し、秀家の名も親良と改めた。元和4年(1618年)美濃国に五千石加増、寛永4年(1627年)下野国烏山城を賜り、鳥山に二万五千石を領した。
参考文献
- 『寛永諸家系図伝』
- 『堀家の歴史』 堀直敬著 堀家の歴史研究会 1967