松倉重政
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松倉重政(まつくら しげまさ、天正2年(1574年)? - 寛永7年11月16日(1630年12月19日))は戦国時代末期~江戸時代初期の大名。肥前日野江(島原藩)に入封して苛政と搾取を行い、子の松倉勝家と共に島原の乱の主因を作った。
[編集] 生涯
父は松倉重信(右近)。松倉家はもともとは大和(奈良県)の筒井家の家臣であった。筒井順慶没後、筒井家が伊賀にうつされると、松倉重政は大和に残って豊臣家の配下となった。なんとか出世しようと慶長5年(1600年)単身関ヶ原の戦いに参陣して徳川家康の目にとまり、大和の五条二見城主となった。さらに慶長20年(1615年)大坂夏の陣に出陣すると、道明寺方面での功によって有馬晴信の旧領であった肥前日野江4万3千石を与えられて移封した。(元和2年、1616年)
元和4年(1618年)、一国一城の制にしたがって従来あった原城と日野江城を廃して島原城(森岳城とも)の建築を始める。石高に見合っていない壮大な規模であった島原城の建築のため、領民から徹底的に搾り取った。さらに検地を行い、領内の石高を実勢の倍近くに見積もり、領民の限界を超える税を取り立てた。
元和7年(1621年)になると、キリシタンの弾圧を開始。最初はゆるやかなものだったが、寛永2年(1625年)に将軍徳川家光にキリシタン対策が甘いといわれたことをきっかけに発奮し、徹底的な弾圧を開始した。顔に「切支丹」という文字の焼き鏝を押す、指を切り落とすなど種々の拷問を行っていたが、寛永4年(1627年)には悪名高い雲仙地獄での熱湯をつかったキリシタンの拷問・処刑を開始した。寛永6年(1629年)には長崎奉行竹中采女正重義にすすめて長崎中のキリシタンを雲仙に連行している。
さらに(どこまで本気だったのかは不明ながら)キリシタンの根拠地を滅ぼそうと、ルソン(フィリピン)を独力で攻略しようと考え、そのためのさらなる戦費を領民に課した。ルソン出兵実施の矢先の寛永7年(1630年)に小浜温泉で急死。あまりの悪政を見かねた幕府による毒殺ともいわれ、宣教師たちは罪のないキリシタンたちを責め殺したために狂死したのだと噂した。
嫡子松倉勝家が家督を継いだが、父を超える苛政を行い、島原の乱を招いた。その責任をとらされ、幕府の命によって打ち首になった。大名が打ち首になるのは江戸時代を通しても異例のことであり、その失政が明白であった証左であるといえる。