堀江 (大阪市)
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堀江(ほりえ)は、江戸期の大坂市街地の西南部、長堀川と西横堀川(両方とも戦後埋め立て)、木津川、道頓堀川(西道頓堀川)の4つの堀川に囲まれていた地域である。現在の大阪府大阪市西区北堀江一丁目~四丁目、南堀江一丁目~四丁目にほぼ該当する。
市街地の中でも陸地になったのがもっとも遅い低湿地であり開発は遅れていた。石山本願寺をめぐる戦い(石山戦争)の時期は、この地域はまだ海だったと思われ、石山本願寺を支援する毛利をはじめとする大名方と織田信長方の水軍同士の戦闘(木津川の戦い)がこの付近で行われていた。
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[編集] 堀江新地の開発
元禄11年(1698年)、安治川を開削するなど、淀川水系の治水・大坂の水運・経済機能の発展に功績のあった河村瑞賢により、長堀川と道頓堀川の中間の荒れ地に堀江川が開削されて堀江新地の開発が始まった。
彼はこのとき堀江・道頓堀川南岸・古川・富島の新地開発を行うなど、大坂市街地の西や南への拡大を手がけている。
ちなみに、堀江の名は、仁徳天皇が開いたという「難波の堀江」の伝説(上町台地からさらに北へ、吹田市江坂辺りまで長く伸びて淀川や河内潟をふさいでいた砂州を、船の交通や通水のために現在の大阪城の北側、天満橋あたりで切り開き水路を開削したという言い伝え)に由来するが、両者は場所が一致せず直接の関係はない。
[編集] 堀江への優遇策
堀江新地は大坂では最後発の街であり、たいした産業もなく活気のない場所だった。堀江の開発にかけた資金を回収するため、幕府は商業に対するさまざまな優遇策を打ち出してゆく。
- 船の営業権や市場の開設など、商いを起こしやすい制度をつくった。
- 市内で制限されていた娯楽を許可し、にぎわいを呼ぼうとした。たとえば相撲や能、文楽の興行、さらに売春業である茶屋の営業も許可した。(堀江新地は、この色町のことを意味することがある。)
[編集] 江戸期の堀江の商業
これら優遇策により堀江は徐々に賑わいを見せ始める。
- まず諸国からの材木を扱う材木業が水運の便利で土地もある堀江に立地した。長堀川の河岸は「材木浜」と呼ばれるほどになり、江戸末期には家具製造、仏具製造、欄間製造などの関連産業も立ち上がった。
- 長堀の西のほうに土佐藩蔵屋敷があったが、名産の鰹節をここで全国に販売する鰹座を設置していた。
- 堀江川沿いには藍玉屋がならび染色業を営んだ。
- また堀江には「青物市」(野菜市場)なども整備された。もともと大坂の青物は天満の天満青物市場が独占しており、他の町が青物市を出すことには強硬に反対していたが、堀江の発展のためここにだけ例外的に青物市が認められることになり、近郊農家の多い難波村などから多くの農民が野菜を売りに来た。
[編集] 江戸期の堀江の娯楽
- 堀江新地には寺を作る広い土地が確保され、元禄11年(1698年)和光寺という大きな寺が作られた。長野の善光寺は、本田善光が「難波の堀江」から金銅製阿弥陀像(欽明天皇の時代に百済の聖明王から献呈されたが、仏教を嫌う守旧勢力によって川に投げ捨てられた)を拾い上げて故郷に祀ったことが起源とされているが、これにちなみ智善上人が「この場所こそ善光寺如来の出現の地」であると寺堂を建立した。この寺には大きな池があって真ん中に浮御堂があり阿弥陀如来をまつっていたため通称『あみだ池』と呼ばれ親しまれ、周辺は娯楽の中心となっていった。境内および周辺には講釈の寄席・浄瑠璃の席・大弓や揚弓・あやつり芝居・軽業の見世物や物売りの店が並び、2月の涅槃会に4月の灌仏会は特ににぎやかだった。富くじの興行や植木市も有名であった。なお、堀江の西を南北に貫く通り・あみだ池筋の名はこの寺に由来する。
- 大坂相撲も堀江が発祥である。江戸初期は気風が荒々しく、相撲興行は観客同士の喧嘩、口論、暴力沙汰が耐えなかったため長い間幕府により禁止されており、最初は寺社への寄進名目の勧進相撲しか許可されなかった。寺社への寄進を目的としない興行的な勧進相撲は大坂の南堀江で元禄15年(1702年)に解禁され、以後さまざまな力士らが勧進元となり職業相撲をくりひろげ、やがて大坂相撲が公の許可で相撲興行ができるようになったため、全国の力士が試合のため堀江に集まるようになり、18世紀後半までは日本中の相撲の中心地となった。
- 芝居も盛んになり、豊竹此太夫らが人形浄瑠璃を堀江で演じるなど道頓堀の芝居街に負けない賑わいを見せた。
[編集] 堀江の町人の文化
この地の町人の中にはやがて、大坂の他の街とも共通することであるが、家業の傍ら趣味で学問を始め、哲学や自然科学に大きな功績を残すアマチュア学者も増えた。
特に、堀江の酒造家・坪井屋吉右衛門こと木村蒹葭堂(きむらけんかどう、1736年~1802年)は、少年時代から本草学を研究し文人画家でもあった。特に、自宅に日本だけでなく漢籍や西洋の博物学書籍、中国の書画、動植物や鉱物の標本、地図など膨大な資料を集めた図書館や博物館のようなものを作っていた。伊藤若冲に代表される、諸国より大坂に来た学者、文人、画人は、蒹葭堂の収集物を閲覧し研究するために堀江を訪れ互いに歓談・議論をし、全国のさまざまな知識人の出会いの場、学問や知識の情報交換の貴重な場となっていた。
[編集] 堀江の災害、特に津波
江戸時代の堀江はたびたび大火事を出した。住民によるものばかりでなく、工場からの出火も原因のひとつであった。元治元年(1864年)8月には、南堀江の西横堀川周辺に集中していた銅吹き屋など金属精錬業者、金属加工業者の中から出火し、付近一帯を焼失した。
また、元が低湿地だったこともあり、淀川水系の氾濫や台風の高潮では大きな被害を出した。河村瑞賢の元禄の工事の後も、大坂の河川は上流からの土砂がたまり川底が浅く洪水や高潮が起こりやすかった。大きな船も川底の浅さのため市内に遡れない状態で、以後明治中期にいたるまで何度も河川改修の陳情が出されている。
高潮や洪水ばかりでなく津波も堀江を襲った。安政元年(1854年)11月4日、遠州灘から紀伊半島南東沖一帯を震源とするマグニチュード8.4の巨大な南海地震、安政南海地震にともなって発生した津波では、四国や紀州に壊滅的な被害が起こったが(稲むらの火の逸話は有名である)、大阪湾奥の天保山にまで山のような津波が押し寄せ大坂中の川に深い泥水が侵入した。 揺れる地面を避け、多くの人が堀や川に浮かぶ船に避難したが、これが被害を拡大した。無数の船が津波に押し流され上流に殺到し、道頓堀などにかかる橋に次々衝突して転覆しその衝撃で橋を落とし、船の中や橋の上の人は川に投げ出された。大小の船がさらに下流から押し流されてきて転覆した船や壊れた橋の上にうず高く折り重なった。川沿いの家々も津波によって浸水し破壊され、これらすべてによって多くの犠牲者が出た。
実は宝永四年(1707年)の大地震の津波でも全く同じように、船による被害が出ており、その教訓が忘れ去られた故の悲劇であった。
[編集] 明治以降の堀江
幕末以降も、水運に便利な堀江は物資の集散地、生産地として栄えた。 明治3年(1870年)、岩崎弥太郎は、堀江にあった蔵屋敷で土佐藩が始めた九十九商会の監督に任ぜられた。翌年の廃藩置県後、九十九商会は個人事業となったが、弥太郎は県から土佐藩所有の船三隻を買い受け、1873年に三菱商会と改称し、海運と商事を中心に事業を展開した。翌1874年に本社を東京に移転したが、これが三菱グループの始まりであり、いまでも堀江の蔵屋敷跡にある土佐稲荷神社はグループの原点に位置づけられ、グループ会社の役員たちが参拝している。
関西電力の前身である大阪電燈は明治末期、燃料輸送に便利な南堀江の道頓堀岸に発電所を作った。(このレンガ造りの建物はのちに宇治川電気の変電所となり、その後長らく倉庫として使用されていたが、関電の超高層マンション建設のため2004年に取り壊された。)当時は東京電力の前身東京電燈が直流方式の送電を用いて関西へ進出したが、大阪電燈は電力ロスが少なく安価に電力供給できる交流方式で対抗した結果、東京電燈は競争に負け大阪からの撤退を余儀なくされた。東京電燈も後に交流方式へと転換したが、対抗意識があったのか大阪のアメリカ製60ヘルツ発電機と異なるドイツ製の50ヘルツの発電機を購入したことが、今日まで東日本(50ヘルツ)と西日本(60ヘルツ)の周波数の違いに影響している。
堀江周辺は四ツ橋筋を走る市電南北線、長堀沿いに走る東西線などが交差し、道頓堀の南側の対岸には関西鉄道の湊町駅(吉野の材木を大量に大阪へ運び込んでいた)、高野鉄道の汐見橋駅が開設されるなど交通も至便であり、多くの市民が住み、働き、また茶屋や芝居小屋、劇場や寄席などで遊ぶ地域として繁栄した。
[編集] 戦後の堀江
堀江は大阪大空襲で灰燼に帰したものの、再び材木業や家具販売業、堀江新地などが復興した。しかし時代は水運から陸運へと変わり、堀江をめぐる川は西道頓堀川と木津川を除きすべて高度成長期に埋め立てられた。渋滞の激しく土地の狭い市内から材木業は郊外へと移転した。堀江新地も廃止されその面影は雑居ビルや駐車場となり消えていった。
家具屋街として知られた立花通りは高度成長期には空前の繁栄を見たが、次第に市民の郊外への転居、郊外の大型家具店の登場で廃れ始め、1990年代には人通りがほとんどないまでに寂れてしまった。
[編集] 堀江の商業地としての復活
平成10年(1998年)ごろを転機に、堀江は再生への道を歩み始めた。
廃業寸前だった立花通りの家具屋はバブル崩壊後、息子たちの代の経営者に代替わりし、1992年ごろから「オレンジ・ストリート」の愛称やフリーマーケット、ベストカップルコンテストなど若者向けの催しを企画し始めたが、四ツ橋筋の東側のアメリカ村からは若者がなかなか流れてこない状態で、家具を購買させるにはいたらなかった。それでも催しや「家具フェスタ」など、「家具の町」を呼びかけ続けて模索するうちに好機が到来した。
- かつて何もなかったアメリカ村で若者向けの店を開いた人たちが、堀江公園があり緑も比較的多い堀江に注目して、ゆったり過ごせるようなカフェを開業させたこと
- アメリカ村の制御不可能に陥った雑踏や騒音と訪れる客層の低年齢化を嫌った若者層が新しくできる堀江のカフェや店舗群に注目し始めたこと
- さらに決定的だったのは立花通りの家具店跡に相次いで東京から大型セレクトショップが進出したことだった。
2001年ごろには大阪へ進出する店舗が堀江に矢継ぎ早に開業し、地元勢もカフェやギャラリー、衣料店の複合店舗などを次々開店した。立花通りの人通りは激増した。旧来の家具屋も、セレクトショップのテナントビルに移行する者や、若者向けのインテリア店や高級インテリア店として改装する者があらわれ、再び立花通りは家具選びの選択肢として浮上するようになった。SOHOや小規模事務所なども新規に開業し、デザイナーらの拠点としても機能し始めた。
この結果、大阪の地価が下がり続けた2000年代前半、勢いのある商業地として評価された堀江の四ツ橋沿いの地価は下げ止まるようになった。また、治安も以前と比べて大幅に改善されている。
[編集] 堀江の将来
2005年現在、店舗の立地は立花通り沿いから、四ツ橋筋の新築の大規模ビルや、路地裏の町家、長屋など多様化し面上の広がりを見せ、業種も服やインテリア、カフェのみならずますます多様化、細分化している。地域は旧来の店舗や住宅、オフィスビルと、それらを改装した新しい店舗、新築の現代建築、緑の多い公園などが混在し、キタやミナミといった旧来の大阪の商業中心的な繁華街にはない緩やかな空気が流れている。
又、立花通りや堀江公園を中心とした南堀江中心の出店が、北堀江やなにわ筋より西の方にまで広がり、さらに新町や靭公園、南船場、心斎橋などとも繋がりを持っている事も注目できる。地元住民が近年の活況で自信を取り戻した事、なおかつ無秩序な店の出店には歯止めをかけている功績も大きい。こういった活況が大阪市役所など行政の手によらず、志を持った住人たちの力で起こった事は町の再生の成功例として評価できる。
今後の課題としては、過熱もせず減速もしない適正規模の出店数を維持できるか、低年齢化や無秩序化、混雑をいかに抑えて大人の町を守る事ができるかである。又、住宅の都心回帰により居住地としても堀江は注目され、超高層マンションが次々計画されているため、これらマンションと既存の町並み、新住民と旧住民がいかに地域を共有できるかは重要である。形成途上にある堀江のブランドを守る関係者の努力が必要とされている。
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