太田康資
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太田 康資
太田 康資(おおた やすすけ、1531年(享禄4年) - 1581年(天正9年)?)は、戦国時代の武将。太田資高の嫡男。兄弟に太田景資・太田資行。太田重正の父であるともいわれるが、実際のところ証拠がない。彼を英勝院の父であるとする説がある。なお、康の字は北条氏康からの拝字である。また、江戸城築城で有名な太田道灌からは直系のひ孫に当たる。
[編集] 経歴
1547年ごろに父が没すると家督を継ぎ、江戸城代となる。これは父からの引継ぎであった。彼の妻は遠山綱景の娘(法性院)であるとされ、彼女は一旦北条氏康の養女となったのち、彼に嫁いでいる。この配慮から、氏康は彼の待遇をかなり高い位置に置いていたとも見れる。
彼は武勇に優れていたと伝えられている。しかし、与えられた恩賞が少なかったことから不満を抱いたとされる。一説には曽祖父が築城した江戸城の城主になれなかったことを不満に思っていたともされる。この時、江戸城には本丸に富永氏(富永直勝)、二の丸に遠山氏(遠山綱景)が寄っており、彼は三の丸に寄る、城代3人のうちの一人でしかなかったのである。
1563年、恩賞への不満から、同族の太田資正を通じて上杉家への寝返りを画策する。この寝返りは、北条方の資料には、資正や里見氏が進めた寝返りであるともいう。しかし、この寝返りは失敗し、彼は資正の元に逃亡。上杉謙信は自身側についている数少ない武蔵国人である両名の救出を、安房、上総、下総の領主である里見氏に要請、里見家当主であった里見義堯はこれに応じ、嫡男義弘を総大将とする大軍を派遣、義弘は国府台城に入る。
1564年初頭、北条と里見、太田連合軍は激突。第二次国府台合戦であるが、北条に大敗。康資はそのまま里見氏の庇護を頼り安房に逃亡。その後も北条と戦い続けるも1581年死去したといわれる。一説には里見氏の家督争いのさいに起こった正木憲時の反乱に巻き込まれ、正木憲時に加担したということでともに小田喜城で自害したとも言う。
しかし、一説には資正とともに佐竹氏に逃げたとも言われ、国府台以降の彼の経歴は曖昧である。
徳川家康が寵愛した側室である英勝院は、康資の娘であるという説がある。また、彼女には1591年に佐竹氏に追われて逃げた江戸重通の娘が、康資の養女となったという説もある。この説だと、先ほどの1581年没説はおかしいということになる。そして、江戸時代に5万石を領した太田氏は、英勝院の親類であるという。つまり、太田氏の流れはここで不明となる。太田氏の家系図は信憑性が低いとされているものが多く、太田資宗の代に改竄があった可能性が高いとされている。