北条経時
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北条 経時(ほうじょう つねとき、元仁元年(1224年) - 寛元4年閏4月1日(1246年5月17日))は、鎌倉幕府の第4代執権である。執権1242年-1246年。3代執権北条泰時の子北条時氏の嫡男。母、松下禅尼(安達秋田城介景盛の娘)。幼名:太郎。
父・時氏は1230年に早世し、その他の北条泰時の子もことごとく早世していたため、1241年、祖父・泰時より後継者に指名され、評定衆の一人に列せられた。翌年、泰時の死去に伴って執権となる。
ところが、泰時の死と若年の経時の継承により、北条一族内部に執権職などをめぐっての対立が発生、さらには四代将軍・九条頼経が成人し、実権を掌握しようとする問題などから反執権勢力が盛り返しを図り、経時は苦境に立たされた。経時はこれを挽回するため、1244年に頼経の将軍職解任を強行し、頼経の子・藤原頼嗣を五代将軍として擁立した。さらに頼嗣に妹を嫁がせることで、反勢力の攻勢を鎮めることには成功した。
しかし、前将軍となった頼経はなおも鎌倉にとどまって頼嗣を補佐したため、経時は頼経の追放を図ったが失敗。その心労から病にかかり、1246年、弟の北条時頼に執権職を譲って出家し、同年のうちに死去した。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1234年(天福2)3月5日、元服。四代将軍九条頼経が加冠し、諱を一字賜り、経時と名乗る。 8月1日、幕府の小侍所別当と就る。 8月11日、従五位下に叙し、左近衛将監に任官。左近大夫と称する。
- 1241年(仁治2)6月、幕府の評定衆と就る。 8月12日、従五位上に昇叙。左近衛将監如元。
- 1242年(仁治3)6月15日、執権と就る。
- 1243年(寛元元)6月12日、正五位下に昇叙。左近衛将監如元。 7月8日、武蔵守に転任。
- 1246年(寛元4)3月23日、執権辞職。 4月19日、落飾し、安楽と号す。 閏4月1日、卒去。享年23。 法名:蓮華寺安楽。 菩提所:鎌倉市材木座の天照山蓮華院光明寺。
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