利根 (重巡洋艦)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
艦歴 | |
---|---|
発注: | |
起工: | 1934年12月1日 |
進水: | 1937年11月21日 |
就役: | 1938年11月20日 |
その後: | |
除籍: | |
性能諸元 | |
排水量: | 基準:12,000t、公試:14,000t |
全長: | 201.6m |
全幅: | 19.4m |
吃水: | |
機関: | タービン4基4軸、152,000馬力 |
燃料: | 2,700t |
最大速: | 35kt |
航続距離: | 18ktで8,000浬 |
兵員: | |
兵装: | 20.3cm連装主砲4基8門 12.7cm高角砲8門 25mm機銃12挺 13mm機銃4挺 61cm魚雷発射管12門 |
航空機: | 水上偵察機6機 |
利根(とね)は、日本海軍の重巡洋艦で、利根型重巡洋艦の1番艦。三菱重工業長崎造船所にて建造。艦名は二等巡洋艦の命名慣例に従って、関東地方を流れる利根川にちなんで名づけられた。
重巡洋艦であるにもかかわらず河川名が付けられた理由は最上型重巡洋艦(当初は軽巡洋艦であり、改装後も書類上は二等巡洋艦)5番艦として計画されたためである。 後に再設計により重巡洋艦(書類上は二等巡洋艦)となるが艦名はそのまま使用された。
20.3cm主砲2連装4基8門を艦首に集中配置することによって艦尾を空け、水上偵察機搭載能力を増した独特のシルエットを持つ1万t級の重巡洋艦であり、日本海軍が建造した最後の重巡洋艦であった。最初の計画では、最上型と同じ15.5cm砲を装備するいわゆる条約型として昭和9年に起工した。しかし友鶴事件や第四艦隊事件の教訓によって計画を変更した。なお、20cm砲4基をすべて前甲板に配置する特殊な配置は、偵察装備を充実させる他に大和型戦艦の主砲を前甲板に集中する案のテストの意味も含まれていたと言われている。
[編集] 艦歴
竣工後は筑摩と第八戦隊を編成し第二艦隊に所属していたが、偵察能力を買われ第一航空艦隊に編入された。搭載する偵察機は、空母の攻撃隊に先立って目的地を偵察する役割があった。
1941年12月7日の真珠湾攻撃は第一次攻撃隊より1時間前にハワイ上空に潜入し敵艦の状況を報告した。その帰還途中にウェーク島攻略作戦に参加、搭載機が偵察を行った。1942年1月ラバウル、ニューギニア攻撃を支援。2月ポート・ダーウィン空襲、ジャワ侵攻を支援。
1942年4月セイロン沖海戦に参加。搭載機がイギリスの重巡洋艦ドーセットシャー、コンウォールを発見、この2隻は空母艦載機の攻撃により沈没した。
1942年6月ミッドウェー海戦に参加。この時はカタパルトが故障し偵察機の発進が30分遅れ日本海軍敗北の一因となった。ミッドウェー海戦後アリューシャン作戦を支援。
その後ソロモン諸島方面で第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦に参加。1943年はトラックを基地としてマーシャル諸島やカロリン諸島で活動した。
1944年6月マリアナ沖海戦に参加、10月には捷一号作戦に参加。10月22日ブルネイを出港。24日シブヤン海海戦で空襲により命中弾を受ける。翌日サマール沖海戦に参加。
1945年3月19日、江田島湾内にて停泊中米第58任務部隊による空襲を受けて損傷。7月24日第38任務部隊によって再度空襲を受け損傷。7月28日にも再度空襲を受け、アメリカ軍艦載機の空襲により爆弾6発を受け大破着底し、終戦を迎えた。
1948年、船体はスクラップとなった。
現在、能美島(江田島湾)の利根の着底した場所付近には、慰霊碑が建てられている。また、慰霊碑に隣接して、「軍艦利根資料館」があり、利根の舵輪、信号燈、コンパスなどの遺品(装備品)や精密なミニチュア模型などが展示されている。
[編集] 同型艦
[編集] 関連項目
大日本帝国海軍の重巡洋艦 |
太平洋戦争 |
古鷹型:加古 | 古鷹 青葉型:青葉 | 衣笠 |
妙高型:妙高 | 那智 | 足柄 | 羽黒 |
高雄型:高雄 | 愛宕 | 摩耶 | 鳥海 |
最上型:最上 | 三隈 | 鈴谷 | 熊野 |
利根型:利根 | 筑摩 鈴谷改型:伊吹 | 301号艦 |
この「利根 (重巡洋艦)」は、軍艦に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています。 |